王国設立とは? わかりやすく解説

王国設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 15:52 UTC 版)

オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン」の記事における「王国設立」の解説

アントワーヌ弁護士としての法律知識根拠に、ビオビオ川南部地域チリにもアルゼンチンにも属していないとの主張展開した1860年11月17日、後に「外務大臣」となるフランス人移住者F.デフォンテーヌが経営する農場で、アラウカニアの独立宣言し宣言書署名をした。そして、マプチェ族系の諸族の首長集めた議会招集し、彼らの投票によって決議され形式取って立憲君主制定めた続いて国歌国旗制定し憲法起草し農政・教育・防衛他の大臣指名し、さらに王国通貨として硬貨鋳造するなど、国家としての体裁整えた。この王国建設知ったパタゴニア部族長たちはアントワーヌ接触して同国への編入希望し、これは実現した。こうして彼のアラウカニア・パタゴニア王国は、チリ中部からアルゼンチン南部にかけた広大な地域領土とした。 外国からの承認を得るべく、アントワーヌ宣言書写しチリのエル・メルクリオ新聞社送付し1860年12月29日にはこれを出版した。さらに彼はチリ政府代表謁見するためにバルパライソ向かったが、チリ政府一貫して無視態度決め込んでいた。一方でアントワーヌフランス政府巻き込もうとも試みたフランス領事は問い合わせなどを通じて少々接触持ったが、その結論は「非常識なもの」として関わり持たないという判断だった。 アントワーヌ王国チリ政府にとって何ら脅威ではなかったが、アラウカニア併呑もくろむ当局にとって格好口実となった1862年、軍はアラウカニア制圧作戦実行移した。再び不安定になりつつある政情武装固め始めたマプチェ族が待つアラウカニアにアントワーヌ戻り各部族への歴訪行っていた。ところが、使用人だったフワン・バウティスタ・ロサレス(Juan Bautista Rosales)に手引きされたチリ当局が彼を拉致し、監獄収監した。さらに裁判にかけ、フランス領事館が介在する直前には精神病院放り込もうとしていた。こうして、アントワーヌフランス強制送還された。

※この「王国設立」の解説は、「オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン」の解説の一部です。
「王国設立」を含む「オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン」の記事については、「オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン」の概要を参照ください。

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