王国設立
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「オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン」の記事における「王国設立」の解説
アントワーヌは弁護士としての法律知識を根拠に、ビオビオ川南部の地域はチリにもアルゼンチンにも属していないとの主張を展開した。1860年11月17日、後に「外務大臣」となるフランス人移住者F.デフォンテーヌが経営する農場で、アラウカニアの独立を宣言し、宣言書へ署名をした。そして、マプチェ族系の諸族の首長を集めた議会を招集し、彼らの投票によって決議された形式を取って立憲君主制を定めた。続いて国歌と国旗を制定し、憲法を起草し、農政・教育・防衛他の大臣を指名し、さらに王国の通貨として硬貨を鋳造するなど、国家としての体裁を整えた。この王国建設を知ったパタゴニアの部族長たちはアントワーヌに接触して同国への編入を希望し、これは実現した。こうして彼のアラウカニア・パタゴニア王国は、チリ中部からアルゼンチン南部にかけた広大な地域を領土とした。 外国からの承認を得るべく、アントワーヌは宣言書の写しをチリのエル・メルクリオ新聞社に送付し、1860年12月29日にはこれを出版した。さらに彼はチリ政府代表と謁見するためにバルパライソに向かったが、チリ政府は一貫して無視の態度を決め込んでいた。一方でアントワーヌはフランス政府を巻き込もうとも試みた。フランス領事は問い合わせなどを通じて少々の接触を持ったが、その結論は「非常識なもの」として関わりを持たないという判断だった。 アントワーヌの王国はチリ政府にとって何ら脅威ではなかったが、アラウカニア併呑をもくろむ当局にとって格好の口実となった。1862年、軍はアラウカニア制圧作戦を実行に移した。再び不安定になりつつある政情に武装を固め始めたマプチェ族が待つアラウカニアにアントワーヌは戻り、各部族への歴訪を行っていた。ところが、使用人だったフワン・バウティスタ・ロサレス(Juan Bautista Rosales)に手引きされたチリ当局が彼を拉致し、監獄に収監した。さらに裁判にかけ、フランス領事館が介在する直前には精神病院に放り込もうとしていた。こうして、アントワーヌはフランスに強制送還された。
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