土着主義の敗北と国家統一とは? わかりやすく解説

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土着主義の敗北と国家統一(1853年-1880年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「土着主義の敗北と国家統一(1853年-1880年)」の解説

1852年2月3日のカセーロスの戦いによってロサス失脚したことは、アルゼンチンでは建国以来続いていた争いにおける近代化西欧化潮流勝利を確定した。この流れ沿ってアルゼンチン国家統一達成し19世紀後半から20世紀半ばまで南米随一近代国家としてラテンアメリカ最強としての立場を築くことになったが、この時代大きな特徴としては、外交路線ロサス時代国粋主義から、先進国との国際協調主義移行したことが特に挙げられる。このことは1857年制定されたある法律で、国粋主義貫いて英仏との戦争戦い抜いたロサスが「傷ついた祖国罪人」と規定されたことによって象徴され以降マルビナス戦争敗戦によるロサスの公式な再評価までこの枠組み継続したまた、ウルキーサの時代に「統治とは植民なり」を信条にしていたフアン・バウティスタ・アルベルディによって事実上起草された1853年憲法は、第25条で「連邦政府ヨーロッパ移民誘致すること」を定めた世界で稀に見る条項を持つことになった。アルベルディは自国経済政策において「豊かなパンパ抱えアルゼンチン工業化目指すのはドン・キホーテ的愚行」と述べ、後に大統領になるサルミエントも『ファクンド文明野蛮』の中で、アルゼンチンパンパ農牧品を輸出してヨーロッパから工業製品を買うべきであると述べている。このような方針のためにアルゼンチンにおいて自主的工業化そもそも果たされるべき目標にもならなかった。 カセーロスの戦いでロサス失脚し、ウルキーサがアルゼンチン実権を握ると、「1837年世代」が亡命先から帰国し以降自由主義者だった彼らによってアルゼンチン近代化西欧化推進された。しかし、ウルキーサが連邦派の立場捨てずロサス以来アルゼンチン連合制度化する道を選ぶと、自由主義者はウルキーサを見限りブエノスアイレス州実権握ってブエノスアイレス州アルゼンチン連合から離脱したこのためロサス失脚後アルゼンチン連合ブエノスアイレス国が対立することになるが、1861年9月にブエノスイアレスの指導者バルトロメ・ミトレがパボンの戦いでウルキーサを破ると、双方態度軟化し翌年ブエノスアイレスが自らの指導認めることを条件アルゼンチン連合加入することになった。 こうして1862年ブエノスアイレス指導的な立場確保したままアルゼンチン連合加盟することによってアルゼンチン共和国成立しアルゼンチン初の制度的な国家統一実現された。自由主義者のバルトロメ・ミトレが共和国大統領になると、先進国との協調的な政治的姿勢確定され農牧業労働力確保人口白人化のためのヨーロッパ移民導入本格的に始まることにとなった。その一方で国内では五月革命以来衰退進んでいたアルゼンチン内陸部国内産業はいよいよ崩壊し自立的な工業化発展への道は閉ざされることになる。つまり、アルゼンチンはこの時期に、世界経済中枢であるイギリスに、穀物牛肉供給する代わりに工業製品購入するための周辺国として世界市場組み込まれることが確定したのであるこのため失業が広まる内陸部ラ・リオハ州からアンヘル・ペニャローサがブエノスアイレス中央集権主義ミトレ政権に対して反乱を起こすが、すぐに連邦軍鎮圧された。 1864年ブラジルアルゼンチンによるウルグアイへの内政干渉理由パラグアイフランシスコ・ソラノ・ロペス大統領ブラジル宣戦布告すると、翌年ミトレ大統領パラグアイ軍領土通過断られロペスアルゼンチン宣戦布告したことによって三国同盟戦争への参戦なされたミトレ政権前述先進国との国際協調的な立場からこの戦争積極的に推進しイギリス仲介によってブラジルウルグアイ三国同盟結んだ後に戦争のために連邦軍制度化軍備強化が進むが、一方で窮乏した内陸部から「地方人であることは、祖国も自由も権利持たない奴隷である」ことを掲げたフェリペ・バレーラ(スペイン語版英語版)がブエノスアイレスによる中央集権主義に対して、「三国同盟戦争への反対ラテンアメリカ諸国連合」を旗印反乱起こした。しかし、困窮した地方諸州のカウディージョガウチョによる反乱軍整備され連邦軍により鎮圧され1876年にリカルド・ロペス・ホルダンが敗れたのを最後にカウディージョの乱は終わりを告げた1868年大統領就任したドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(英語版)はより一層この政策推進し、「ガウチョをいくら教育してイギリス工員にすらなれない」、「ガウチョの血を一滴たりとも節約してならない」と日頃から述べてたように近代化土着文化への弾圧進められた。三国同盟戦争1870年同盟側の勝利終わりパラグアイ滅亡引き換えブラジルアルゼンチンフォルモサ州ミシオネス州併合したサルミエント政策は必ずしも民衆から支持得ていた訳ではなく、現在でも「アルゼンチン聖書」と呼ばれて国民的な人気保っているホセ・エルナンデスガウチョ叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成したのはこの頃である。 1874年就任したトゥクマン州出身ニコラス・アベジャネーダは、敵対していた土着的要素中でも特にインディオ重視し1860年フランス人オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによってアラウカニア・パタゴニア王国建国されるなど、パタゴニアアルゼンチン主権及ばないことが他国(特にイギリスフランス同時期にアラウカニア制圧作戦進めていたチリ)によるパタゴニア植民地化に繋がるのではないか懸念もあり、1877年陸軍大臣のフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍によって、「砂漠の征服作戦」開始された。この征服作戦により、マプーチェ族初めとするパンパインディオ諸部族アルゼンチン軍敗れ征服終わった後は20万人のパンパ・パタゴニアのインディオ人口が2万人にまで減少した。この広大なパンパパタゴニア可耕地は、征服参加したごく一部人間によって分配されリバダビアロサス連綿と進められてきたアルゼンチン従属資本主義的大土地所有制、一群粗放土地利用による生産性の低いエスタンシア群はここに完成することになった1880年4月大統領選挙で対インディオ作戦成功により人気集めたトゥクマン州のフリオ・アルヘンティーノ・ロカが勝利するが、このことを不満に思った対立候補ブエノスアイレス州知事カルロス・テヘドールが6月1日州軍警察総動員して反乱起こした教育面では、「統治とは教育なり」を信条にしていたサルミエント6年任期中小学校を1,082校から1,816校にまで増設女性教員養成師範学校増設陸軍士官学校海軍将校学校創設各種博物館研究所創設努めた。この措置により、1869年アルゼンチン初の国勢調査時点80%を越えていた文盲率は急速に改善し、これによりサルミエントは「教育の父」とも呼ばれることになった

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