土着主義の敗北と国家統一(1853年-1880年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「土着主義の敗北と国家統一(1853年-1880年)」の解説
1852年2月3日のカセーロスの戦いによってロサスが失脚したことは、アルゼンチンでは建国以来続いていた争いにおける近代化=西欧化の潮流の勝利を確定した。この流れに沿ってアルゼンチンは国家統一を達成し、19世紀後半から20世紀半ばまで南米随一の近代国家としてラテンアメリカ最強国としての立場を築くことになったが、この時代の大きな特徴としては、外交路線がロサス時代の国粋主義から、先進国との国際協調主義に移行したことが特に挙げられる。このことは1857年に制定されたある法律で、国粋主義を貫いて英仏との戦争を戦い抜いたロサスが「傷ついた祖国の罪人」と規定されたことによって象徴され、以降マルビナス戦争の敗戦によるロサスの公式な再評価までこの枠組みは継続した。 また、ウルキーサの時代に「統治とは植民なり」を信条にしていたフアン・バウティスタ・アルベルディによって事実上起草された1853年憲法は、第25条で「連邦政府はヨーロッパ移民を誘致すること」を定めた、世界でも稀に見る条項を持つことになった。アルベルディは自国の経済政策において「豊かなパンパを抱えるアルゼンチンで工業化を目指すのはドン・キホーテ的な愚行」と述べ、後に大統領になるサルミエントも『ファクンド、文明と野蛮』の中で、アルゼンチンはパンパの農牧品を輸出してヨーロッパから工業製品を買うべきであると述べている。このような方針のためにアルゼンチンにおいて自主的工業化はそもそも果たされるべき目標にもならなかった。 カセーロスの戦いでロサスが失脚し、ウルキーサがアルゼンチンの実権を握ると、「1837年の世代」が亡命先から帰国し、以降自由主義者だった彼らによってアルゼンチンの近代化=西欧化が推進された。しかし、ウルキーサが連邦派の立場を捨てずにロサス以来のアルゼンチン連合を制度化する道を選ぶと、自由主義者はウルキーサを見限り、ブエノスアイレス州の実権を握ってブエノスアイレス州はアルゼンチン連合から離脱した。このため、ロサス失脚後もアルゼンチン連合とブエノスアイレス国が対立することになるが、1861年の9月にブエノスイアレスの指導者バルトロメ・ミトレがパボンの戦いでウルキーサを破ると、双方は態度を軟化し、翌年ブエノスアイレスが自らの指導権を認めることを条件にアルゼンチン連合に加入することになった。 こうして1862年にブエノスアイレスが指導的な立場を確保したままアルゼンチン連合に加盟することによってアルゼンチン共和国が成立し、アルゼンチン初の制度的な国家統一が実現された。自由主義者のバルトロメ・ミトレが共和国大統領になると、先進国との協調的な政治的姿勢が確定され、農牧業の労働力確保と人口の白人化のためのヨーロッパ移民の導入が本格的に始まることにとなった。その一方で国内では五月革命以来衰退が進んでいたアルゼンチン内陸部の国内産業はいよいよ崩壊し、自立的な工業化の発展への道は閉ざされることになる。つまり、アルゼンチンはこの時期に、世界経済の中枢であるイギリスに、穀物や牛肉を供給する代わりに工業製品を購入するための周辺国として世界市場に組み込まれることが確定したのである。このため、失業が広まる内陸部のラ・リオハ州からアンヘル・ペニャローサがブエノスアイレスの中央集権主義とミトレ政権に対して反乱を起こすが、すぐに連邦軍に鎮圧された。 1864年にブラジル、アルゼンチンによるウルグアイへの内政干渉を理由にパラグアイのフランシスコ・ソラノ・ロペス大統領がブラジルに宣戦布告すると、翌年ミトレ大統領にパラグアイ軍の領土通過を断られたロペスがアルゼンチンに宣戦布告したことによって三国同盟戦争への参戦がなされた。ミトレ政権は前述の先進国との国際協調的な立場からこの戦争を積極的に推進し、イギリスの仲介によってブラジル、ウルグアイと三国同盟を結んだ後に戦争のために連邦軍の制度化、軍備強化が進むが、一方で窮乏した内陸部から「地方人であることは、祖国も自由も権利も持たない奴隷である」ことを掲げたフェリペ・バレーラ(スペイン語版、英語版)がブエノスアイレスによる中央集権主義に対して、「三国同盟戦争への反対とラテンアメリカ諸国の連合」を旗印に反乱を起こした。しかし、困窮した地方諸州のカウディージョやガウチョによる反乱軍は整備された連邦軍により鎮圧され、1876年にリカルド・ロペス・ホルダンが敗れたのを最後にカウディージョの乱は終わりを告げた。 1868年に大統領に就任したドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(英語版)はより一層この政策を推進し、「ガウチョをいくら教育してもイギリスの工員にすらなれない」、「ガウチョの血を一滴たりとも節約してはならない」と日頃から述べていたように近代化と土着文化への弾圧が進められた。三国同盟戦争は1870年に同盟側の勝利で終わり、パラグアイの滅亡と引き換えにブラジルとアルゼンチンはフォルモサ州とミシオネス州を併合した。サルミエントの政策は必ずしも民衆から支持を得ていた訳ではなく、現在でも「アルゼンチンの聖書」と呼ばれて国民的な人気を保っているホセ・エルナンデスのガウチョ叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成したのはこの頃である。 1874年に就任したトゥクマン州出身のニコラス・アベジャネーダは、敵対していた土着的要素の中でも特にインディオを重視し、1860年にフランス人のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによってアラウカニア・パタゴニア王国が建国されるなど、パタゴニアにアルゼンチンの主権が及ばないことが他国(特にイギリス、フランス、同時期にアラウカニア制圧作戦を進めていたチリ)によるパタゴニアの植民地化に繋がるのではないかと懸念もあり、1877年に陸軍大臣のフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍によって、「砂漠の征服作戦」が開始された。この征服作戦により、マプーチェ族を初めとするパンパのインディオ諸部族はアルゼンチン軍に敗れ、征服が終わった後は20万人のパンパ・パタゴニアのインディオ人口が2万人にまで減少した。この広大なパンパとパタゴニアの可耕地は、征服に参加したごく一部の人間によって分配され、リバダビア、ロサスと連綿と進められてきたアルゼンチンの従属資本主義的大土地所有制、一群の粗放な土地利用による生産性の低いエスタンシア群はここに完成することになった。 1880年4月の大統領選挙で対インディオ作戦の成功により人気を集めたトゥクマン州のフリオ・アルヘンティーノ・ロカが勝利するが、このことを不満に思った対立候補のブエノスアイレス州知事カルロス・テヘドールが6月1日に州軍、警察を総動員して反乱を起こした。 教育面では、「統治とは教育なり」を信条にしていたサルミエントは6年の任期中に小学校を1,082校から1,816校にまで増設、女性教員の養成、師範学校の増設、陸軍士官学校、海軍将校学校の創設、各種博物館や研究所の創設に努めた。この措置により、1869年のアルゼンチン初の国勢調査の時点で80%を越えていた文盲率は急速に改善し、これによりサルミエントは「教育の父」とも呼ばれることになった。
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