土石流と洪水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 14:37 UTC 版)
降下火山灰の等層厚線図を作成した金井眞澄は、大正大噴火の火山灰の粒経、そして土壌が水を浸透させる能力である浸透能を測定している。金井の測定によれば大正大噴火の火山灰の平均粒径は、1955年から続く桜島火山の噴火による火山灰の平均粒経よりも細かい。 粒度の細かい火山灰に覆われることによって、雨水が著しくしみ込みにくくなった。金井による大正大噴火の火山灰に覆われた土地での浸透能の測定によれば、これまでの地面に比べて浸透能は約7分の1に低下し、1955年から続く桜島火山の噴火による火山灰によるデータと比較しても2分の1から3分の1にまで低下した。。その上、大量の降灰によって山林の植生が破壊されて保水力が低下した。また大量の火山灰が河川上流部から流れ下るようになって中下流では河床の上昇が起きた。その結果として大隅半島では比較的少量の降水量であっても土石流や洪水に見舞われるようになった。 噴火後、まず1914年2月8日の降雨によって土石流、河川の氾濫が発生した。続いて2月15日、3月6日、3月8、9日、23日と立て続けに土石流、洪水による被害が発生する。日雨量に換算して10ミリメートル程度の降水量でも災害が起きており、橋脚の流失、堤防の決壊、農地や家屋への大きな被害等が発生し、中でも2月15日には1名が行方不明になり、3月6日の土石流、洪水では6名が亡くなり、1名が行方不明と人的被害も発生した。なお3月6日の犠牲者のうち3名は桜島から大隅半島へ避難してきた避難民であった。土石流は30センチメートル以上の降灰地域で頻発し、洪水もやはり30センチメートル以上の降灰地域を流れる河川で数多く発生した。 大正大噴火の降灰に伴う土石流、洪水は1921年頃まで頻発する。中でも源流域が降下火山灰の主軸に位置する串良川の被害が大きく、地域住民たちは子どもたちまで動員しての河川改修、堤防の修理等に追われるようになる。しかし重機が無い状態で専門的知識に欠ける住民たちによる工事は、直しては洪水によって壊されるの繰り返しであった。
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