土石流の侵食作用による切開の形成
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「岩屋寺の切開」の記事における「土石流の侵食作用による切開の形成」の解説
大きな河川が存在しない山頂近くにありながら、河食による形成説が長期間にわたり存在し続けた切開について、綿密な現地調査と考察を行った井上は、2006年(平成18年)3月に『峡谷地形「岩屋寺の切開」の成因』と題した論文を島根県地学会会誌へ発表した。 井上の考察は以下に集約される。 峡谷は断層破砕帯の上に位置している。そのため破砕帯はその両側硬岩に比べて侵食に対する抵抗力は著しく小さい。 峡谷が形成される前からそこは谷地形(谷中谷)、すなわち水の通り道であった。 峡谷の終点(峡谷最上流部)は3つの谷が合流する地点であり、豪雨時には流水が集まるところに位置している。 峡谷壁面には、板状体の上端面がいずれも上流側に傾いた微地形があり、これはインブリケーション(覆瓦構造)と同じように流れの卓越方向を示す構造である。 このような地形、このような地質の場所に、異常な集中豪雨とそれによる土石流が発生すれば、切開のような峡谷の形成は可能であろうと結論付けた。形成過程をより具体的に表現すれば、まず初めに、土砂を含んで高密度となった土石流が峡谷終点付近の変則十字谷で合流し、そこから一気に切開峡谷形成前のNW性の谷を流下した。この谷底は断層破砕帯(未固結の軟岩)であって、その両側は硬岩であるため、破砕帯の部分のみが深く侵食され峡谷になったと考えられる。この考え方は、下流部にあたる参道の各所に存在する土石流堆積物とその特徴である角礫が混ざった岩相や破壊された木片、少量の玄武岩礫の存在とも調和している。 なお、切開の上流部から山頂にかけて大規模な崩壊地形は存在しないが、土石流の発生には必ずしも大きな崩壊を伴わない。例えば1966年(昭和41年)9月に、山梨県南都留郡足和田村(現富士河口湖町)で死者・行方不明者94人を出した足和田災害のケースでは、直接の要因となった土石流発生の最初の2か所の崩壊地点では、厚さ数10センチの表土が、わずか2から3平方メートル崩れただけであったのにもかかわらず、それが流れ下りながら、やがて大きな土石流に成長したことが後年の調査により確認されている。 切開の形成された時期についても考察が行われ、手掛かりとなる次の4点が挙げられた。 峡谷は谷中谷であり、新しくできた谷と考えることが出来る。 峡谷の左岸側はオーバーハングしていて、節理は開口して不安定な地形になっており、そのため崩壊が進行していて、原壁面と見なされる板状体の部分は失われているが、それでも谷壁の大部分は保存されている。 土石流は谷底を埋めた最も新しい堆積物である。 土石流に含まれる木片の切断面からはわずかながら樹脂がしみ出てくる。炭化した痕跡もなく、埋没による変形もない。 以上のことから岩屋寺の切開は、きわめて新しい時期に形成されたもので、おそらく数百年前から古くても千数百年前の間であると考えられる。
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