土砂と治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 07:31 UTC 版)
海河下流は低地帯であり、満潮時には川の水は下流から上流へ逆流し、干潮時には上流から下流へ流れる。海の潮汐と川の流れが一致することが「海河」の名の由来である。明末期の科学者・農学者である徐光啓は華北に水稲を導入した際、まず海河下流域で栽培に成功し、生長期が長く品質も良い「小站稲」(現在の天津市津南区にある小站鎮の名にちなむ)は有名になり海河下流は水田地帯になった。しかし海水が水田に逆流して稲を枯らすのを防ぐため、1959年には攔河大壩という河口堰が造られている。 黄河同様、海河も粉末状の黄土の多い地域を流れてくるため、流水の中には相当量の土砂が混じっている。下流では自然堤防や川床に堆積した土砂のために天井川になっており洪水が起きやすい。さらに5つの大きな支流に対して、水深の浅い河口がひとつしかないため洪水はより起こりやすく、より大きくなる。 海河の流域の地形は、高い太行山脈から平坦な華北平原へ直接つながっており落差が激しい。華北では年平均降水量は少ない反面、雨量が夏の一時期に集中する。7月や8月に太行山脈の山麓で豪雨が起こると、平原部に入ったところで河川の流れが急に緩やかになるため洪水が発生し土砂が堆積する。このため平原では河道は広く浅く、流路も何度も変わっている。 記録によれば、明朝が成立し北京に遷都した1368年から中華人民共和国が成立した1949年までに海河流域では387回の大規模な水害と407回の大規模な旱害が起きている。支流のひとつ永定河は、河道が常に定まらないことからもとは「無定河」と名づけられていたが、皇帝が大きな洪水が起こらないよう祈願して永定河と改名させた。 1939年には大洪水で津浦鉄道が破壊され、天津市街は水につかり中心部の和平区の低地帯では水深が2mに達し2ヶ月近く水が引かなかった。1963年には太行山脈で7日に渡り豪雨が続き、衡水市付近は洪水で海のようになった。天津の工業地帯を守るため上流で堤防が壊され、上海や広州と北京とを結ぶ京広鉄道や京滬鉄道は水没した。こうした被害が相次いだことから、毛沢東は穀倉地帯である河北省や北京・天津などの大都市を守るために海河の治水を指令した。 これにより上流には多くのダムが、下流には増水時に水を海へ直接流す放水路が建設された。たとえば、潮白河には潮白新河という放水路が造られており、現在は北運河には合流していない。海河流域では1963年以後大水害は起きていない。
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