土砂の調達と反対運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 23:51 UTC 版)
「金沢地先埋立事業」の記事における「土砂の調達と反対運動」の解説
この埋立計画では当初より漁業関係者から根強い反対運動があったが、1971年1月にようやく補償交渉がまとまった。同年11月に、事業予算と工期がほぼ2倍になる計画変更が発表されると、反対派の市民運動は強くなり、2号地以降の埋立中止、工場移転をやめ住宅地とすることなどを主張した。連合町内会などを中心とした移転推進派も、国道16号と湾岸道路の間を緑地とすること、早急な下水処理場の開設などを主張した。計画変更案は、長浜措置場の景観保全や、人造湖やサイクリングロードを配した公園の造成を付帯意見に盛り込み可決された。 長浜水路以南の第3期および海の公園造成に用いる土砂は、当初は千葉県富津市の浅間山から採取することが検討されていたたが、千葉県が土砂を県外へ持ち出させない方針を打ち出したことや、容積あたりの単価が比較的高価であったことから、京浜急行電鉄が金沢区釜利谷町で計画している宅地造成で生じる残土の利用に切り替えた。この計画は「釜利谷の緑を削って海岸を埋め立てる、二重の自然破壊である」として反対派の態度を硬化させる原因となった。さらに1973年のオイルショックにより釜利谷開発の見通しは立たなくなった。 横浜市鶴見区と川崎市川崎区にまたがる扇島は、千葉県が土砂を県外へ持ち出させない方針を打ち出す以前に1億2500万トンを確保し、このうち8000万トンを使い埋立をほぼ完成させていた。その残りの使用を希望したが、川崎市や東京都も使用を希望した。結局、横浜市はこのうち2000万m3を使用できることとなった。釜利谷地区は開発面積中の宅地の比率を下げ、1978年に許可が下りた。残土は金沢地先埋立に使用され、ベルトコンベアで搬入されることとなったが、その量は当初の見込みの1/10程度の約300万m3ほどであった。
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