共和国大統領
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- 共和国大統領 (フランス) - フランスの大統領の正式名称(仏: Président de la République)
- イタリア共和国大統領 - イタリアの大統領の正式名称(伊: Presidente della Repubblica Italiana)
- アルゼンチン大統領 - アルゼンチンの大統領の正式名称(西: Presidente de la República de Argentina)
- ポルトガル共和国大統領 - ポルトガルの大統領の正式名称(葡: Presidente da República Portuguesa)
- チリ共和国大統領 - チリの大統領の正式名称(西: Presidente de la República de Chile)
- ポーランド共和国大統領 - ポーランドの大統領の正式名称(波: Prezydent Rzeczypospolitej Polskiej)
- ギリシャ共和国大統領 - ギリシャの大統領の正式名称(希: Πρόεδρος της Ελληνικής Δημοκρατίας)
関連項目
共和国大統領
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「エイモン・デ・ヴァレラ」の記事における「共和国大統領」の解説
アイルランド独立戦争の最中の1919年1月、デ・ヴァレラの帰国を待って行われたドイルの第1回議会において、デ・ヴァレラはIRAに対し、英国政府からテロリズムと呼ばれるような行動、待ち伏せなどのゲリラ戦術をやめ、正々堂々と戦うよう求めた。しかし、装備・規模ともにまさる英国軍にアイルランド兵が正攻法で立ち向かえるはずはなかったため、この発言は現実離れしたものと徹底的に批判され、デ・ヴァレラはあわててIRAに対する支持を再表明しなければならなかった。デ・ヴァレラは図らずも、独立戦争の厳しい現実に対する認識の甘さを露呈することになった。次にデ・ヴァレラはカハル・ブルハ、オースティン・スタックと組んでマイケル・コリンズをアメリカでの交渉に送り込もうと画策した。この3人はコリンズの人気が自分たちのそれをしのいでいることを危険視し、体よく追い払いたいと考えていた。しかしコリンズはこの申し出を拒否して、アイルランドにとどまった。 1921年8月、デ・ヴァレラはドイル・エアランに1919年のドイル憲法の改正を指示し、自らの職を議長から共和国大統領へと昇格させた。これによってデ・ヴァレラは自分がアイルランドの元首としてジョージ5世英国王と同等の立場に立っており、和平交渉(1921年10月 - 12月)に国王が出席しない以上、自分も出席する必要はないと表明した。この交渉では英国側が大きく譲歩し、アイルランドは北部6県(現在の北アイルランド)を除く諸州の独立を勝ち取った。こうして成立したのがアイルランド自由国である。プロテスタントの多い北部6県は連合王国のもとに残ることになった(厳密には北部6県には、アイルランド自由国と連合王国のどちらかに所属するかの選択の自由が与えられており、連合王国への帰属を選択した)。この結果を受けて国境策定委員会が設置され、話し合いによって北部6県とアイルランド自由国の間の国境を画定することになった。このようなやり方には多くの者が不満を持ったが、コリンズら条約賛成派は国境委員会での交渉の持っていきようによっては北部6県を経済的に立ち行かないようにさせることができ、最終的に全土をアイルランド自由国に組み込むことができるであろうと考えていた。
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