共和国宣言
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セダンの戦いに敗れ、ナポレオン3世は降伏して捕虜となった。 1870年9月4日、立法院ではパリカオ内閣が国防政府の樹立を提案し、皇帝の退位要求に蓋をしようと試みた。長時間にわたる議論が行われたが、休憩時間中に民衆が押し掛けてくるという噂が広まると議員たちは議場から避難していた。空っぽになった議場に民衆が乱入してきた。ナポレオン帝政に対する不満は敗戦への怒りとなって爆発し、民衆はブランキ派のエミール・ウードやエルネスト・グランジェ(英語版)に導かれて立法院に殺到してきたのである。人々は「帝政を倒せ!立法院を倒せ!共和政万歳!」と叫び、フランス第二帝政の失権を迫った。革命派の跳躍に危機感を抱いたジュール・ファーヴル(英語版)は共和国樹立はパリ市庁舎で宣言させると民衆に呼びかけ、人々を議場から導いていった。その間、議場に残ったブルジョワ議員は仮政府の閣僚名簿を作成していった。民衆はブランキやドレクリューズを閣僚に望んでいたが、このとき作成された閣僚名簿は民衆が期待していたものとは全く異なるもので、ブルジョワ中心の穏健な共和派政府を作るというものであった。レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って共和国宣言を発し、空になった議場で作成された国防仮政府(英語版)の閣僚名簿を発表した。ルイ・ジュール・トロシュ(英語版)を首班とし、外相にジュール・ファーヴル(英語版)、内相にガンベダ、そしてパリ急進派議員ヴィクトル・ロシュフォール(英語版)を閣僚とする仮政府(英語版)が樹立された。 しかし、和平の早期実現を望む仮政府と徹底抗戦を要求する民衆との対立は激しいものとなっていた。王政復古の可能性を示唆するブルジョア色の濃い仮政府の成立に裏切りを感じたパリ労働者の代表者たちは今後の対応を協議し始めた。IWAのフランス連合評議会はコンドリーに本拠を構え、当地で会合をもち仮政府に圧政の停止を要求したが、軽くあしらわれる結果となった。そのため、9月5日にはインター派の発議で今後の方針を検討するために「共和会議」が開催されたほか、仮政府と市政の監視のため各区に監視委員会が設置され、その上位に連絡部会を設立しようとする動きが生じていった。
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共和国宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 14:18 UTC 版)
11月9日、首都ベルリンでゼネストが起こった。ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。これに対してマックス大公子は皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した(ドイツ共和国宣言)。 社会民主党にとってレーテ(評議会)とはボルシェビズムのソビエトであったのでこれを否定したため、独立社会民主党やスパルタカス団などの革命派との抗争となっていく。しかし、ベルリンの兵舎や工場で相次いでレーテが結成されはじめたため、政権の維持を目指したエーベルトは独立社会民主党との連立政府「人民委員政府」の結成に踏み切った。11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府「人民委員評議会(ドイツ語版)」が樹立された。その日の内にヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。一方、ベルリンの労兵レーテは人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテが半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会(ドイツ語版)を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた。 11月10日夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、また軍は、軍の維持と将校の権威の回復など旧来の将校組織を温存するという協定が結ばれ(エーベルト・グレーナー協定(ドイツ語版))、人民委員評議会政府とドイツ軍の相互依存関係が開始した。エーベルトはまた旧来の官僚組織を温存し、社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした。一方、海軍は水兵の反乱で将校の権威が失墜したまま混乱が続き、維持は認められたが革命を制圧する能力はなかった。しかし首都の治安を守るためにクックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団(ドイツ語版)」が結成された。しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。 11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した。
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