共和国時代
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清教徒革命後の1653年にイギリス初の成文憲法として制定された『統治章典』は、チャールズ1世を処刑した後不在となっていた国家元首の地位を「護国卿」(Lord Protector)と定め、12月16日に共和国の常備軍であるニューモデル軍司令官で独立派の政治家でもあるオリバー・クロムウェルを終身任期の護国卿に任命した。この護国卿がイギリスを統治した時代を「護国卿時代」または「プロテクトレート」(The Protectorate)と呼ぶ。 オリバー・クロムウェル(1653年 - 1658年) リチャード・クロムウェル(1658年 - 1659年) 護国卿の職責職権は統治章典によって定められていたが、イングランド・スコットランド・アイルランドの3ヶ国を議会と共同統治、立法・行政を議会と共有、議会閉会中は国務会議の同意が必要とされた。だが国務会議はクロムウェルの諮問機関であり、議会の権限を弱くした規定が多く、実際は護国卿の権限が強くなっていた。中産階級は護国卿の支持層だったが、王党派や平等派など他の派閥は反対派に回った。 クロムウェルは護国卿に就任すると1654年9月3日に第一議会を開いたが、政府の正統性を問題視した議会が批判し続けたため1655年1月22日に解散し、8月に軍政監を設置して護国卿を事実上の独裁者とする軍事政権を確立した。しかしそれにも限界があり1656年9月17日に第二議会を召集、議会の提案に基づき1657年1月に軍政監が廃止されると社会安定を重視し軍事政権から王政への回帰へ考えを変えて、5月25日に統治章典に代わる『謙虚な請願と勧告』制定を受け入れた。クロムウェルは王ではなかったがそれに準ずる権力(後継者指名権など)を手に入れ、かつて共和国が廃止した上院と枢密院の復活と下院の権力強化もなされ、護国卿の権力は強化され体制と社会の安定が図られた。 こうして護国卿の地位は、前国王を処刑してまで廃止したはずの旧君主のそれと実質的に同じものとなり、君主の専権事項だったナイト爵の叙任なども従前そのままに護国卿が行うようになっていった。護国卿の国家元首としての正式称号も By the Grace of God and Republic Lord Protector of England, Scotland and Ireland (神と共和国の恩寵による、イングランド、スコットランド、およびアイルランドの護国卿) という旧態依然としたものになった。 だが政局は安定せず、議会に入った共和主義勢力が政局を乱したため1658年2月4日にクロムウェルは混乱を避けるべく議会を解散した。それから7ヶ月後の9月3日にクロムウェルが病死すると、護国卿の地位は子のリチャード・クロムウェルによって引き継がれた。 リチャードは父の晩年に屋台骨が揺らぎ始めた共和制の引き締めを図るため、軍との対立もあって1659年1月27日に第三議会を召集したが、軍の圧力で4月22日に解散せざるを得なくなった。5月7日に軍がランプ議会を召集し復活、政権存続を諦めたリチャードは就任8か月に当たる18日後の25日に護国卿を辞任するに至った。終身任期の護国卿が就任から1年も経たずに辞任に追い込まれたことで、イングランド共和国はここに事実上崩壊した。この後は元オリバーの部下だった者たちと議会との間で勢力争いのいざこざが繰り返されて政局は空転、これをうけて翌1660年5月29日には故チャールズ1世の嫡男が亡命先から帰国、ロンドンでチャールズ2世として即位し、イングランドは王政復古を実現している。 クロムウェル父子の後、「護国卿」の称号はこの両名と不可分なものとなった。それはまた、不名誉な共和制を連想させて余りある語でもあった。これ以後イギリスでこの「護国卿」の称号が使用されることは二度となかった。
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共和国時代
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ハタイ独立後、議会選挙が行われたも、これの監督がフランス軍であることに対し、トルコ政府はシュキュル・カナトル大佐率いるトルコ軍を派遣した。結果、1937年8月の議会選挙で、多数派をトルコ人が獲得し、1938年9月にハタイ共和国が建国された。
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