軍との対立
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ようやく開始されたマンハッタン計画であったが、シラードが計画に公然と異議を唱えだすのに時間は掛からなかった。科学者を小さなグループに分け、意見交換を禁止した計画の秘密主義的な運営は、知的放浪者としてのシラードの性質とは相容れないものであり、シラードは度々その機密保持上の要請を無視した。コンプトンは1942年10月には早くもシラードを研究所からはずそうとしたが、シラードと親しい同僚の反発を恐れて思いとどまっている。アメリカが原爆開発に遅れを取っていてはドイツに負けるというシラードの長年の訴えは、これより前の1940年にすでにシラードを海軍情報局の監視対象としていた。皮肉にもこのときの報告書はシラードを「ドイツが戦争に勝つだろうと思うと幾度も表明してきた…きわめて親ドイツ的」な人物だとしている。 決定的な対立は計画の指揮官であるレズリー・グローヴズ准将との間で起こった。プルトニウム製造工場を請け負ったデュポン社との非効率な情報交換による計画の遅れにシラードは不満を訴えたが、これに対しグローヴズは、シラードをドイツのスパイの疑惑がある敵性外国人であるとして戦争終結まで拘禁すべきだとした。これはスティムソン陸軍長官によって拒絶されたものの、シラードは計画から隔離され、それ以降、陸軍による常時の監視下で盗聴や尾行が行われた。計画への復帰を求めるシラードの武器は政府資金がもたらされる前にフェルミとともに有していた特許であった。結局1943年12月に妥協が成立し、シラードは抑えられた給与で研究所の支払名簿に復帰することになった。 しかしシラードは計画への物理学上の興味を失い、計画と爆弾の政治上の問題にのめりこむようになった。1944年1月には、ブッシュへの書簡の中で依然計画の遅れに不満を述べている。シラードは、その理由に戦後の国際的核管理体制構築の必要性を持ち出しているが、この時点では原爆の使用に関してブッシュとの違いはなく、次のように述べ、原爆が使用されなければ原爆を管理する国際的合意に至らないかもしれないとも訴えている。「高性能の原爆がこの戦争で実際に使用され、大衆の心にその実際の威力が深く浸透するのでなければ、そうした政治的行動を取ることは難しいものとなるでしょう。おそらくはそれが私にとって、自分の周りで起こっていることに苦しんでいる大きな原因なのです。」
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