エチオピア、イギリス、イタリア連合軍との対立とは? わかりやすく解説

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エチオピア、イギリス、イタリア連合軍との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 08:44 UTC 版)

サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン」の記事における「エチオピア、イギリス、イタリア連合軍との対立」の解説

ヌガールに移ったムハンマドは、デュルバハンテ族から人手集め勢力復活したこのころからムハンマドサイイド称号呼ばれるようになった1900年の末、エチオピア皇帝メネリク2世イギリス働きかけ共同でダラーウィーシュを攻撃することを提案したイギリスはそれに応じスワイン中佐(E.J. Swayne)にヨーロッパ人顧問20人とにソマリ1500与え1901年5月22日イギリス領ソマリランド中部の町ブルコから出発したエチオピアもそれに合わせて1万5千を送った対するダラーウィーシュ軍は兵力2万であり、その4割が騎兵だった。 1901年から1904年にかけてはダラーウィーシュ軍が優勢で、イギリス軍エチオピア軍、さらにはイタリア軍にまで大きな損害与えた。これには、1900年から1902年にかけて、イギリス南アフリカ第二次ボーア戦争戦っていたために、ソマリアにまで手が回らなかったからという事情もある。このような情勢のため、ムハンマド宗教的な指導者とは認めなかった他のソマリ族続々ムハンマドへの協力表明した1904年1月9日イギリス将軍チャールズ・エガートン (Charles Egerton) がジダーリ平原にてダラーウィーシュ軍7千を殺す勝利を収めムハンマドらはマジーティーン族 (Majeerteen) の支配地に逃亡し3月21日にイリグ(現エイル)に到着以後数年間はここを拠点とした。1910年頃には、ムハンマド横暴に怒った600人が大木の下で密会の上離脱する事件起こっている。ムハンマドはこれに怒り大木の下での密会(Anjeel tale waa)」と題する詩を作っている。しかしイギリスムハンマドらに決定的なダメージ与えることはできず、ムハンマドらの本拠地であるヌガールを、イタリア保護下に置かれることを条件自治権認めイギリスムハンマド一時的に和解した

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