エチオピア、イギリス、イタリア連合軍との対立
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「サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン」の記事における「エチオピア、イギリス、イタリア連合軍との対立」の解説
ヌガールに移ったムハンマドは、デュルバハンテ族から人手を集め、勢力を復活した。このころからムハンマドはサイイドの称号で呼ばれるようになった。 1900年の末、エチオピア皇帝メネリク2世はイギリスに働きかけ、共同でダラーウィーシュを攻撃することを提案した。イギリスはそれに応じ、スワイン中佐(E.J. Swayne)にヨーロッパ人顧問20人とにソマリ兵1500を与え、1901年5月22日にイギリス領ソマリランド中部の町ブルコから出発した。エチオピアもそれに合わせて兵1万5千を送った。対するダラーウィーシュ軍は兵力2万であり、その4割が騎兵だった。 1901年から1904年にかけてはダラーウィーシュ軍が優勢で、イギリス軍とエチオピア軍、さらにはイタリア軍にまで大きな損害を与えた。これには、1900年から1902年にかけて、イギリスが南アフリカで第二次ボーア戦争を戦っていたために、ソマリアにまで手が回らなかったからという事情もある。このような情勢のため、ムハンマドを宗教的な指導者とは認めなかった他のソマリ族も続々とムハンマドへの協力を表明した。 1904年1月9日にイギリスの将軍チャールズ・エガートン (Charles Egerton) がジダーリ平原にてダラーウィーシュ軍7千を殺す勝利を収め、ムハンマドらはマジーティーン族 (Majeerteen) の支配地に逃亡し、3月21日にイリグ(現エイル)に到着、以後数年間はここを拠点とした。1910年頃には、ムハンマドの横暴に怒った600人が大木の下で密会の上、離脱する事件が起こっている。ムハンマドはこれに怒り「大木の下での密会(Anjeel tale waa)」と題する詩を作っている。しかしイギリスはムハンマドらに決定的なダメージを与えることはできず、ムハンマドらの本拠地であるヌガールを、イタリアの保護下に置かれることを条件に自治権を認め、イギリスとムハンマドは一時的に和解した。
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