メネリク2世とは? わかりやすく解説

メネリク2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/08 13:34 UTC 版)

メネリク2世
ምኒልክ
エチオピア皇帝
在位 1889年3月9日 - 1913年12月12日
戴冠式 1889年11月3日

出生 1844年8月17日
エチオピア帝国
ショア王国、アンゴレア
死去 1913年12月12日(69歳)
エチオピア帝国アディスアベバ
次代 イヤス5世
配偶者 タイトゥ・ベトゥル英語版
子女 ザウディトゥ
ほか2人
王朝 ソロモン朝
父親 ショア王ハイレ・マラコト
宗教 エチオピア正教
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メネリク2世ゲエズ語:ምኒልክ、Menelik II、1844年8月17日 - 1913年12月12日)はショアの王、後にエチオピア帝国皇帝(在位:1889年3月9日 - 1913年12月12日)。即位前の名はサーレ・マリアム(Sahle Maryam)。

生涯

ショアの王(ネグ)のハイレ・マラコトの王子として生まれ、王位を継承。エチオピア中興の祖である皇帝テオドロス2世がショアを攻撃した際に捕虜とされたが、かえってテオドロスに可愛がられ、このことが自身に大きな影響を与えた。後にヨハンネス4世英語版の跡を継いで皇帝に即位した。

第一次エチオピア戦争においてイタリア王国を破り、列強にエチオピアの独立を承認させた。これは、当時のアフリカ大陸の諸王国の中で唯一独立を保つことができた事例として有名となった。

ベルギーフランスロシアなど複数の列強国家による資本を導入することによって特定の国家に従属することを避けながら、教育の近代化、電話の普及、鉄道、道路の敷設、アビシニア銀行(後のエチオピア銀行)の設立、郵便、貨幣制度、病院など一連のインフラの整備、政治面では内閣制度の導入といった近代化改革など西洋国家をモデルとした新しい国づくりを始めた。こうしてエチオピアはアフリカ諸国の中でも最も進んだ国となった。

1887年、皇后タイトゥのために作られたエチオピア高原避暑地を帝都と定め、アディスアベバ(新しい花)と名付けた。

1906年脳出血を起こし、以後は皇后タイトゥ英語版Taytu Betul)が実権を握ることとなった。

1907年、皇孫のイヤス5世を後継者に勅定し、1913年に崩御した。

近代化政策

メネリクは西洋文明を積極的に導入した。首都アディスアベバにはメネリク学校を設立し、英、仏、伊の言語を教えた。さらにメネリク病院を建設した[1]。交通面では道路の敷設や橋の建設を行った。1894年にはフランス資本のジブチ・エチオピア鉄道の敷設を許可し、1901年までにジブチ-ディレ・ダワ間が開通した。金融では1904年にアビシニア銀行を設立し貨幣制度を整備したが、貨幣の流通は都市圏に限られた[2]。郵便制度は1896年頃から行われたが、エチオピアが国際郵政連盟に加盟したのは1908年になってからだった。電信は鉄道沿いに敷かれ、電話もアディスアベバでは通った。メネリクは自動車や蓄音機にも関心を持った。また、皇帝を補佐する内閣制度を創設した。

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関連項目

脚注

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