メネリクの即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
メネリク2世はこの時期、政略結婚によって足場を固めていた。ヨハンネス4世はカッファをメネリク2世に与える代わりに、ウォロの支配を東部と南部を地元の有力者に、北部をヨハンネスの息子のアラヤ・セラシエに譲らせた。カッファとウォロの交換ではメネリクの方が損な取引ではあったが、メネリクは自分の娘のザウディトゥをアラヤ・セラシエに嫁がせる付帯条件を重視した。また、メネリクは以前妻が反乱の旗頭となった経緯から離婚しており、新たな政略結婚の相手としてドガリでの功労者であるアルラの妹、タイトゥ(英語版)を妻に迎えた。タイトゥの一族は北部への影響力をもち、またタイトゥ自身も女傑というべき気性の持ち主であり、度々メネリク2世の暴走を抑えた。ヨハンネスとメネリクの関係は、これらの政略結婚を通じて友好的となる。また、西部のスーダンにイスラム教徒のマフディー国家(マフディスト・スーダン(英語版))が出現しており、聖戦を唱えてエチオピアへ侵攻していたが、これは両者にとって共通の敵であった。ヨハンネスはメネリクとの関係改善とイタリアとの小康状態を受けてマフディー軍へ攻勢を開始し、1889年には60,000人のマフディー軍が篭る基地を瞬く間に攻略していく。だが、その快進撃が続く最中の3月9日、メテムナの戦いでヨハンネスは致死の重傷を負ってしまう。ヨハンネスは臨終の際に義妹の子のマンガッシャを後継者に指名し、死亡する。マンガッシャは指揮官として実績がある人物だったが、メネリク2世はこの後継に真っ向から異議を唱えて自ら皇帝を名乗る。たちまち両者は後継者の座を巡って戦闘に突入し、イタリアの武器供給を受けたメネリク2世は圧勝して名実ともにエチオピア皇帝となった。マンガッシャはメネリク2世に服し、以後はその協力者となる。これにより、もはやメネリク2世の即位に異議を唱える勢力は消滅し、ようやく念願の皇帝へと上り詰めた。
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