メネリクの挫折
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メネリク2世 ヨハンネス4世(英語版) タイトゥ(英語版) テオドロス2世の死後、皇帝となったのはギヨルギス2世(英語版)だったが、これはワグ地区の長が混乱に乗じてゴンダルを占領した際に自称したもので、正式な皇帝ではなかった。当時の実力者として挙げられる2人、ティグレの諸侯カッサ(英語版)とショア王のメネリク2世のうち、ギヨルギス2世のこもるゴンダルへ近い位置にいたのはカッサだった。カッサは12,000人の兵をもってギヨルギス2世の率いる60,000人の軍勢に戦闘をしかけ、アッサムの地でこれを打ち破った。カッサはこの戦いで24,000人もの捕虜を得、またギヨルギス2世をも捕らえることに成功する。これにより、カッサに皇帝となる道が拓け、聖油式によってネグサ・ナガスト(諸王の王)に君臨するとともに、自らの名をヨハンネス4世(英語版)と改めた。出遅れたメネリク2世は、このヨハンネス4世の即位に対して消極的な反対を行った。すなわち、承認の拒否だった。メネリク2世はより積極的な妨害のためにエジプトをけしかけようとしたが、ヨハンネス4世はエジプト国境に軍を配備して隙をつくらず、メネリク2世の狙いは防がれた。代わって、メネリク2世が次に接近したのは、東アフリカへ進出の気配を見せていたイタリアだった。メネリクは友好関係を築き、近代兵器の購入につなげようとした。しかし、1878年になるとヨハンネス4世の勢力が拡大するとともに、圧迫を受けたメネリク2世のショアに内乱が発生する。しかも、その首班として担ぎ出されたのはメネリク2世の妻であった。メネリク2世はしばらくその対処に追われることになる。また、周辺地域も混乱するショアに背を向け、ウォロなどがヨハンネス支持に鞍替えする。一方、ヨハンネス4世はこの時期は食糧難に苦しんでおり、食料豊富なショアの反乱は、まさに渡りに船であった。1878年1月、ヨハンネス4世がショアに軍を進めると、応戦の準備すらできないメネリクは和平を望んだ。それに対し、ヨハンネスの要求は「奴隷500人、牛5万頭、馬1,000頭の貢物と、メネリクを上半身裸にした上で罪人の首枷をつけて謝罪させる」というものだった。メネリクは憤慨し戦闘の準備を急ぐが、膝もとであるショアの評議会は一方的に和平を決定し、メネリクもそれに従ってワダラ条約(英語: Treaty of Wadara)を締結した。ワダラ条約とはメネリクがヨハンネス4世を承認することと、ショア王であるメネリクが「諸王の王」への名乗りを放棄することと、同時に双方の勢力圏を定める条約であり、これによりメネリクはショア(英語版)とウォロ(英語版)とガラ地方(英語: Galla-land。オロモ及びオガデン)の領有は認められ、ヨハンネス4世はティグレ(英語版)、アムハラ(英語版)、ゴジャム地方(英語版)といったエチオピア北部を支配し、テオドロス2世の築き上げたエチオピア帝国は二分される形となった。このとき、ショアの王都がLicheからDebre Berhanへ遷都された。 一方、この時期の1883年にはイタリアが東アフリカにおける植民地を欲し、エリトリアの植民地化を宣言している。これはエリトリアと接するティグレの支配者、ヨハンネスにとって脅威となり、ヨハンネスはイタリアの動きを警戒した。イタリアはヨハンネスに代わってメネリクと友好関係を結び、イギリスもアフリカの角周辺にフランスが入るよりもイタリアが入った方が与しやすい ためにこれを黙認した。メネリクとイタリアは1883年5月に独自の通商・友好条約を締結し、武器取引は一層拡大する。イタリア政府にはメネリクを傀儡として、エリトリアのみならずエチオピアを植民地とする思惑があり、逆にメネリクもそれを利用した。
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