メネリク2世の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「メネリク2世の統治」の解説
ヨーロッパ諸国に衝撃を与える勝利によって、ヨーロッパ諸国から主権国家として認められたエチオピアだが、メネリク2世は列強に対する対等な外交を実現するため、理想のエチオピア帝国の領土を提唱した。北は国境線は曖昧であるもののエリトリアを国境とし、東はイタリアとイギリスとの協議によってオガデンまでの領有で合意すると、メネリクは南方と西方の領土拡張に興味をもった。西のスーダンはマフディー国家(マフディスト・スーダン(英語版))とイギリス、フランスが覇を競い合っている状態(マフディーの乱)であったため、メネリク2世はファショダ(現Kodok)付近までの侵攻にとどめ、フランスとは白ナイル協定、イギリスとは友好条約を締結して国境線の策定を合意した。南方は独立したイスラム国家を平定してルドルフ湖付近までを領有した。これにより、現在のエチオピアとほぼ重なる領土を持つことになった。しかし、一方では周辺を囲む勢力がイタリア、イギリス、フランスといった列強国となり、1906年に三国は協定を結んでエチオピアへの干渉を始める。いわば、エチオピアは名目上では主権国家を達成しながら、実態としては依然として三国の意思を無視できる状況ではなかった。 メネリク2世は内政においては、フランス・ベルギー・イタリアの協力を受けて近代化を推し進めた。首都として建築したアディスアベバは1910年までに10万人都市として名実ともに首都となり、鉄道をアディスアベバからファショダまで敷設した。また、道路の整備も積極的に行っている。メネリクの統治期間には数多くの橋も建設されている。また、通信線も鉄道に合わせて併設し、郵便と通貨制度の改革も怠らなかった。さらには貨幣経済の基礎としてアビシニア銀行(後のエチオピア銀行)を設立する。これらの事業のうち鉄道事業はフランスが、銀行事業はイギリスがイニシアティブを握った。教育においてはメネリク学校を開設し、知識人の育成を志した。それらの近代化政策の一方で、エチオピアで古くから存在する農奴制(ガバル制度)は温存し、領主の権限に手を出して孤立したテオドロス2世の轍を踏まなかった。
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