ハイレ・セラシエ1世
ハイレ・セラシエ1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「ハイレ・セラシエ1世」の解説
ザウディトゥが女帝として君臨したエチオピア帝国だったが、諸侯に期待されていたのは摂政で人気の高いタファリ・マコンネンだった。内政と外交の全てにおいてタファリが指揮をとり、ザウディトゥと対立しながらもタファリは混乱した国内に安定をもたらし、1926年に陸軍大臣が死去すると国軍もタファリの支持を鮮明にする。外交においては1921年に万国郵便連合に加入して国際的に文明国の仲間入りすると、さらに1924年4月からヨーロッパを外遊し、国際連盟への加入に向けて動き出す。国際連盟加入にあたってはエチオピアの奴隷制が問題となり、その廃止が加入の条件となった。タファリはザウディトゥに依頼して奴隷解放の勅令を発し、無事加入を果たした。しかし、奴隷解放令にはザウディトゥを始めとする諸侯が反対していたため、実際には主人の死亡を条件とした先送りの内容となっていた。また、列強に対してはドイツと通商上の関係を保ちながら、アメリカ、日本とも通商関係を結んだ。タファリの外交姿勢は全ての列強と等距離で関係を結び、エチオピアへの干渉を牽制させあうという狙いに集約される。一方で、1928年にタファリは敵対するイタリアとも友好条約を結んだ。これは、イタリアをすでに掌握していたファシスト党のムッソリーニによる、永世友好条約の呼びかけに応えたものだった。エリトリアのアッサブ港の自由な使用をエチオピアに許し、そこまでの道路建設を許可する代わりに、アメリカの移民法制定のために毎年10万人送還されてくる移民の受け入れ先としてエチオピアの協力を求めるものだった。この条約は20年更新で、異議がなければ永遠に更新されていくことが合意され、その成立を証するために国際連盟への届出さえした。しかし、実際にイタリアがこの条約を守った期間は、7年間にすぎなかった。 ザウディトゥは全ての実権をタファリに握られていたことについて、不快の念を抱き続けていた が、1928年頃に大病を患い、もはや余命数年という状況に陥っていた。宮殿の近衛兵を率いるアバ・ウェクァウは、ザウディトゥの意向を受けて反乱を起こすが、まもなくタファリに鎮圧される。しかし、ザウディトゥはなおも諦めず、1930年にはティグレの不満分子を率いて前夫のラス・ググサが立ち上がったものの、これもタファリの対抗勢力たりえなかった。これにより絶望したザウディトゥは退位を決心し、1930年4月3日、タファリはネグサ・ナガストに即位する。この日よりタファリ・マコンネンはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世となった。
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