ハイレ・セラシエの独裁
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「エチオピアの歴史」の記事における「ハイレ・セラシエの独裁」の解説
帰国した皇帝ハイレ・セラシエ1世は、エチオピアの国民から熱狂的な支持を集めた。その信仰に近い崇拝(ラスタファリ運動)は、ハイレ・セラシエの権威をイタリア侵略以前をはるかに凌ぐものに押し上げる。そのためにハイレ・セラシエは、戦後の政体において立憲君主制ではなく旧来の絶対主義を選択する。権威に批判的な勢力としては、レジスタンスの指導者から取り立てられた諸侯らがいたが、エチオピア政界の主流にはならなかった。ハイレ・セラシエとともにエチオピアの政治をとりしきったのは、皇帝の国璽を預かる職務の大臣であり、1943年以降は実質上の首相として機能していた。1955年までのギヨルギス・ワルダ、1961年から1974年までのアキル・ハブタといった大臣は、それらの中でも特に有力な存在であった。ハイレ・セラシエの統治は、軍事、経済的に最初はイギリスに、後にアメリカに従属することで資本を呼び込むというもので、東西冷戦を利用して多数の借款を集めた。イギリス、アメリカはエチオピアの農業大臣、商務大臣を兼ねるメコネン・ワルダを通じて影響力を行使し、反体制派をソ連に走らせた。ハイレ・セラシエは1955年には憲法改正を行い、皇帝の神格化と無謬性を再確認した。 ハイレ・セラシエが最初に乗り出した産業の育成対象は農業であったが、近代化の進展は全土にわたって停滞した。これは植民地化を拒んで西欧の技術や思想の侵入を拒み続けていたため、アフリカの他の国々に比べて経済計画の導入が困難なためだった。その中において、1952年からアメリカが技術援助を行ったカッファのコーヒー栽培は順調に進み、イエメンのモカ港から積み出されるコーヒー豆はアメリカに5000万ドルの利益をもたらした。1960年にはアメリカが200万ドルの開発融資基金が貸し出されたが、それにより南部では私的土地所有が進み、土地が高騰した。一方、北部では旧来の土地制度を守り続け、効果は地方によりまちまちだった。商業においては1960年代になっても国民総生産の7%を占めるのみだったが、コーヒーといった商品作物を利用して規模は拡大していった。輸出品目には、それぞれ管理するボードを設置し、輸出される数量、価格を調整していた。工業においては1952年にイギリスの軍政下から連邦として加わったエリトリアが著しい進展をみせ、旧来のエチオピアは緩慢な進捗であった。その中ではアディスアベバ近郊には電力会社が設立され、石油精製工場、セメント工場が建設され、石油・セメントといった都市計画に不可欠な資材が生産され始める。輸出品目としては、綿織物工場と製糖工場の生産品がエチオピアに外貨をもたらす。しかし、工場はほとんどがアディスアベバに偏っており、その建設に伴う利権と繁栄の集中は次第に諸侯の反感を育てていった。 ハイレ・セラシエはイタリアの占領以前からハイレ・セラシエ軍事訓練校を設立するなど軍事改革に乗り出していたが、皇帝に復帰したことでその改革をさらに推し進めていく。軍の改革はイギリスから1942年に同意書を、アメリカからは1953年に同意書をとり、両軍の関与の元で推進された。エチオピア軍はイタリアへのレジスタンス活動から引き継いだ非正規軍が多く、地域の領主との関わりが深かった。ハイレ・セラシエはこれを自らの統制に戻すべく、正規軍へと徐々に編入させていった。この正規軍増員の背景には、ソマリアとの間で帰属を争うオガデンの存在があった。1953年、ハイレ・セラシエはさらにスウェーデンに5,000人の帝国親衛隊を送り、エリート部隊としての訓練を受けさせたが、陸軍と親衛隊、そして親衛隊内部での待遇の差が、激しい反目をもたらすことになった。
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