第一次エチオピア戦争
第一次エチオピア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:05 UTC 版)
「オレステ・バラティエリ」の記事における「第一次エチオピア戦争」の解説
エリトリア戦争での勝利以降、エチオピアと停戦していたイタリアはメネリク2世の傀儡化に失敗して第一次エチオピア戦争が勃発、バラティエリは2万人のエリトリア守備隊を率いてエチオピア領内に侵入を開始した。バラティエリはコアチツの戦いでエチオピア軍の地方軍を破り、イタリア政府はスーダンでの戦勝と合わせて「アフリカ人の軍隊」に対する先入観を強めた。ところが、エチオピア国王直属の軍は英仏の支援で近代的な装備と訓練を終えていて、状況を察知したバラティエリは決戦を避けて相手の消耗を待った。 しかし現地のバラティエリと違い、状況を把握しないイタリア政府はバラティエリに決戦を厳命した。2月29日、アドワ北方でイタリア陸軍1万7000人とエチオピア軍10万人が衝突(アドワの戦い)、朝方に始まった戦いは正午に終わり、ほぼ死者数は両者とも1万人程度だった。エチオピア軍の装備と戦力差から言えば互角以上の戦いだったが、数的に勝るエチオピアに比べ、2万人に足らないイタリア陸軍にとって死者1万は致命傷だった。国内での厭戦感情を前に、イタリア政府はエリトリア割譲をメネリク2世が正式に認める代わりに、エチオピアの独立を承認した(アディスアベバ条約)。イタリア政府は帰還したバラティエリに敗戦の責任を押し付け、軍法会議にかけて強制的に退役へ追い込んだ。 オーストリア領トレントに戻ったバラティエリは、1901年8月7日に故郷で病没した。
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第一次エチオピア戦争
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「エチオピアの歴史」の記事における「第一次エチオピア戦争」の解説
イタリアは支援を続けたメネリク2世が即位したことを、エチオピアの保護国化の好機とみなした。1889年5月、イタリアはエチオピアとの地位を確認するウッチャリ条約を締結した。ウッチャリ条約はイタリア語とアムハラ語という双方の公用語を用いた条文が作成された。ただ、その17条の他国との交渉の部分についてはイタリア語版とアムリク語版では明らかな差異があった。アムリク語では「エチオピアはイタリア以外の国と交渉する際はイタリアを利用してもよい」という条文だったが、イタリア語では「エチオピアはイタリア以外の国と交渉する場合は、イタリアを利用することに同意した」となっていた。イタリア語の表現はエチオピアの外交権をイタリアに委ねるという、保護国化へ同意する内容となっていた。エチオピア側が条文の違いに気づいたのは翌年の1890年であり、諸外国の手紙がことごとくイタリアの許可を求めたためだった。メネリク2世と妻のタイトゥはすぐさまイタリアに抗議を申し入れる。イタリア側の全権大使アントネッリは「17条を過ちだと他国に通告することは、国の威信にかかわるためできない」と難色を示すが、交渉の表舞台に出たタイトゥは「同様にエチオピアの威信も尊重されるので、過ちであることはすでに各国に通知した」となし崩しの保護国化を行動で回避した。さらに5条で構成された新たな協定提案がイタリアからなされたが、その第3条が密かにイタリアの保護権を肯定するものだったため、「私は女であるため戦いを好みませんが、これを受け入れるくらいなら戦争を選ぶ」と強硬的な姿勢を見せてイタリアの文書の取り交わしのみで保護国化する目論見を突っぱねた。タイトゥはメネリク2世以上にティグレのエリートとして、領土を脅かすイタリアへの対抗意識をもっていた。また、妻と意見を同じくするメネリク2世も長年協力相手だったイタリアへの妥協を許さず、ついに1893年2月、ウッチャリ条約の破棄をイタリア国王ウンベルト1世に通告する。この強硬姿勢の裏には、チュニジアを巡ってイタリアと対立していたフランス、そしてそのフランスと同盟しているロシアといった勢力の支援があった。1892年に首都をアディスアベバ(「新しい花」の意)に移したメネリク2世は、1895年にエリトリアに攻め込み、撃退されてティグレへと逃れる。これが、第一次エチオピア戦争が始まりであった。 イタリア軍はドガリでの借りを返すべくエチオピア領内のティグレに攻め込むが、エチオピアはそれを待ち構えて逆襲し、イタリア軍を敗走させる。その戦い自体は小競り合いといえるものだったが、イタリアへ勝利したという情報は今まで静観を決めていた諸部族をメネリク2世側につかせた。これにより、テオドロス2世時代とは異なり、団結した状態で対イタリアにあたることになる。イタリア軍の総司令官バラティエリは敗北によって慎重となり、2万のイタリア軍をアドワ北のソリア高原に進出させたものの、補給の遅れから1か月間動けずにいた。その間、イタリア軍は一日150グラムの食料配給で飢えを凌ぐことを強いられ、次第に不満が高まっていく。将校も早期決着につながる強硬論を唱えるが、バラティエリは後続の援軍と補給を待つことを説き、イタリア軍の意見は二つに割れた。それでも何とか部下を抑えていたバラティエリだったが、1896年2月29日、「メネリク2世、病に倒れる」という情報がイタリア軍にもたらされると、バラティエリも深夜の出撃を決意する。バラティエリはイタリア軍を三隊に分け、21時にアドワに向けて進軍を始めた。一方、メネリク2世はコプト正教会の聖堂で、イタリア軍が偽情報を信じて動き出したと報告を受ける。3月1日、新型ライフルで武装する10万のエチオピア軍は行動を開始した。アドワの戦いにおいて、イタリア軍の三部隊は、本隊、アルベルトネ旅団、ダボルミダ旅団によって構成されており、それぞれ大砲と4,000丁以上の小火器を有する部隊であった。だが、地形に関する知識を軽視し、そのうえ夜中の行軍でもあったため、アルベルトネ旅団は行軍の目的地を見失ってしまう。午前6時、アルベルトネ旅団は周囲を満たすエチオピア軍の姿に、一部隊で突出していたことを知る。疲労困憊していたアルベルトネ旅団は、たちまちエチオピア軍の襲撃によって犠牲者を増やしていった。バラティリはその苦境を知ると、ダボルミダ旅団にアルベルトネ旅団への救援を命じる。命令を受けてダボルミダ旅団はすぐに動きだしたが、不思議なことにその進軍先はアルベルトネ旅団の位置とはまるで正反対の方角だった。これは、後にバラティエリが回想するに、崖に阻まれて迂回しているうちに始まった迷走としている。ダボルミダ旅団はエチオピア軍の只中で目的を失って放浪する集団となり、メネリク2世はこれを見逃さなかった。午前9時、ダボルミダ旅団の民兵大隊が崩壊すると、両軍入り乱れた大砲も使えない乱戦となり、イタリア軍の二つの旅団はたちまち殲滅されていった。イタリア軍は本隊の支援の下、かろうじて撤退することができたが、イタリア軍の死者は6,000人、捕虜も5,000人をとられる大敗だった。エチオピアの損害も死傷者1万人という規模だったが、全体の1割の損害にすぎなかった。このアドワの戦闘のイタリアの敗因は、補給の尽きかけた状態で地形も知らないまま敵地に侵入したことによる。第一次エチオピア戦争は、半年後の1896年10月に和平条約が締結されて終了した。その内容は戦前にイタリアが有していたエリトリアとソマリア南部の領有を認める代わりに、オガデンまでのエチオピアの領有を認めるというものだった。だが、エリトリアとエチオピアの境界をどこに置くかの協議は、再びの対立を避けるために両者とも触れることはなかった。これは、1998年のエチオピア・エリトリア国境紛争の原因となる保留であった。
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第一次エチオピア戦争(1895–1896)
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「エチオピア軍事史」の記事における「第一次エチオピア戦争(1895–1896)」の解説
1895年から1896年にかけて、第一次エチオピア戦争は、イタリア王国とエチオピア帝国(アビシニア)との間で争われた。アフリカの大部分とは異なり、エチオピアはヨーロッパ列強による征服を避けられた。1895年、イタリア軍はエリトリアからエチオピアに侵攻した。しかし、エチオピアは単一かつ合体された軍隊を確立し、民族の壁を破って統一したため、イタリア正規軍はアドワの戦いで1年以内に決定的な敗北を喫した。このために特別な役割を果たしたのが、ロシアの軍事顧問やメネリク軍の志願兵(レオニード・アルタモノフなど)であった。
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第一次エチオピア戦争
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「エチオピア戦争」の記事における「第一次エチオピア戦争」の解説
詳細は「第一次エチオピア戦争」を参照 ヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化(アフリカ分割)が進む中、19世紀後半、イタリアはエチオピアに介入を始め、1885年に占領し、1889年、ウッチャリ条約によりエチオピアはエリトリアをイタリアの支配に委ねた。 詳細は「エリトリア#イタリア王国」を参照 また、同年、隣国ソマリアがイタリア領となった(イタリア領ソマリランド)。独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦した。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。 遠征軍の指揮官であるオレステ・バラティエーリはエチオピア軍がフランス式の大砲や機関銃で武装していることを知ると、本国に本格的な派兵を要請した。しかしアフリカ人相手の戦争と侮っていた(これは他の欧州諸国にも通ずる偏見である)フランチェスコ・クリスピ首相は増援を拒絶し、速やかな決戦を命じた。 アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。イタリア軍側は各所で包囲されながも抵抗しエチオピア軍に10000名の損害を与えたが、自らも8000名の兵士を失って敗北した。 終結後の1906年にはエチオピアに関する英仏伊三国協定が結ばれ、エチオピアにおける三国の利益保護のために協力することなどが決められが、1925年にベニート・ムッソリーニがイタリア首相に就任すると翌1926年には英伊二国間でエチオピアにおける利益に関する協定が結ばれた。こうした動きがエチオピアの反発を招くのは必至だった。エリトリヤ、ソマリランド間の連絡を図るためエチオピア領を通る鉄道敷設を計画していたイタリアは、1928年にエチオピアと友好条約を結ぶも両国間の関係は悪化していった。 1930年頃よりイタリアがエチオピア領のワルワルに侵食し始めたことから小競り合いが起こり、欧州列強からの圧迫もあって両国は1934年9月に友好不侵略の協同宣言を発表したもののイタリアの挑発は止まず、同年12月、エチオピアはイタリアを相手取って国際連盟理事会に提訴したが、解決をみなかった。1935年2月、イタリアはエチオピア国境に3万人の師団を動員、エチオピア政府は再度国際連盟に提訴し、在伊エチオピア公使は戦争の覚悟を表明した。
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