勝利から泥沼へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:10 UTC 版)
「第一次エチオピア戦争」の記事における「勝利から泥沼へ」の解説
1893年にイタリアのエリトリア駐屯軍は同地に接するティグレ地方に侵攻を開始、メネリク2世の強権の前に意外にも予想された大規模な反乱は起こらず、少なくともアムハラ系軍閥は結束して戦場に向かった。加えてイタリアにとって最大の誤算は、エチオピアの皇帝直轄軍が数年の間に極めて先進的な装備を手にしていた事だった。イタリアの進出を危惧したフランスは、自国の貿易利益の拡充とスーダン軍への対処も含めてメネリク2世に膨大な銃火器や大砲を売却していた。こうした「敵の敵」からの輸入による軍近代化は国産による根本的な近代化ではなかったが、間近に迫る危機には大いに役立った。 1894年12月、戦況の有利を見てエリトリアでBahta Hagosによる反乱が発生する。バラティエリ将軍は部下のピエトロ・トセッリ少佐に命じてこれを鎮圧しBahta Hagosを処刑、平行して地方国家の首都であったアドワを占領するなど進撃を継続した。1895年1月、有力軍閥の長ラス・メンゲシャがエリトリアに攻め入ってくるのを迎え撃ち、コアチツの戦いで破って敗走に追い込んだ。この勝利は以前の戦闘やスーダン軍を破った経験と合わせて、イタリア陸軍の「アフリカ人の軍隊」への先入観を決定的な物にしてしまった。もっともこうした戦況評価はイタリアだけではなく、武器を譲ったフランス自身もメネリク2世を見捨てる可能性を検討し始めていた。そればかりかバルドー条約の支持を得るためにイタリア側に有利な行動まで取っていた。一方でメネリク2世は1895年9月にショア王国の軍隊を援軍として戦争に加わらせる決定を下している。 1895年12月、イタリア陸軍はエチオピア軍への追撃を開始したが、1895年12月7日に発生したアンバ・アラギの戦いで、メネリク2世はエチオピア皇帝直轄軍の活躍によって漸く近代火器を有効に活用した反撃を行う事が出来た。損害を受けたイタリア陸軍はジュゼッペ・アリモンティ将軍指揮の下、一部部隊を未完成の防衛陣地に残した上で各地に展開していた軍を集結させた。勢いを得たメネリク2世の皇帝直轄軍は前線陣地の包囲を開始したが、数度にわたってイタリア陸軍の防御により失敗した。戦闘の末、イタリア側の陣地司令官は以前軍閥と結んだ協定を活用して、交渉の上で陣地を明け渡し後方の軍に合流した。対するメネリク2世も陣地を明け渡した兵士達に武器の保持を許し、移動用の乗り物を渡すなど礼節に則った態度を示した。この一連の行動は「メネリク2世が未だイタリアとの和解を望んでいた」と解釈するのが一般的な通説であるが、歴史家ハロルド・マーカスはメネリク2世の行動は後にアドワの戦いで地形的な有利を得るための策謀だったと述べている。
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