エリトリア戦争
エリトリア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/23 20:24 UTC 版)
1883年、イタリアがエリトリアの植民地化を宣言する。エリトリアはエチオピアと北に国境を接する隣国であり、ラス・アルラの属するティグレはエチオピア北端にあるため至近の距離にある地域であった。この時期、イタリアはアフリカの角と呼ばれるソマリア南部をすでに保護領としており、エチオピアはイタリアの植民地に北と東から侵食される形となっていた。またイタリアは依然としてエチオピア第二位の地位にあるメネリク2世に接近し、エチオピアへの介入を本格化させていく。メネリク2世も軍隊の近代化の必要性からイタリアと独自に通商条約を結んだ。これにより植民地化の好機と見たイタリアは1885年、エリトリアのマッサワを占領し、ヨハンネス4世の領土へも軍隊を向けてエチオピア領のサハティを占拠する。そのためヨハンネスはイタリアとの対決を決意し、ラス・アルラに軍事と外交の全権を預けて対イタリアの責任者に任命した。アルラはその権限において20,000の軍を編成する。しかしこの当時、イタリアと積極的な通商を行って新型ライフルを揃えたショワのメネリクとは対照的に、エチオピア軍の装備は旧式ライフルがほとんどであった。だがイタリアの期待したメネリク2世も本心では植民地化を拒絶しており、その期待をよそに中立を守り続ける。また、メネリク2世は離縁した妻に代わってラス・アルラの妹タイトゥを後妻に迎え、ヨハンネスとの緊張緩和に努めた。メネリクの妻となったタイトゥはアルラに似て気丈な女性で、直情的な夫を度々諌めて両勢力の融和を取り持った。 メネリク2世 タイトゥ 国内の安定を受け、20,000の軍を編成したアルラだったが、イタリアに占拠されたサハティにすぐには向かわなかった。サハティはすでにイタリア軍が機関銃陣地を築き上げており、その攻略の困難さを把握していた。そのため軍を動かしたのは1887年に入ってからであり、半分の10,000をサハティへの押さえで残しつつ、残りの10,000の進路をサハティではなくイタリア軍の補給拠点があるマッサワ方面に向けた。しかしこのエチオピア軍の動きに、サハティのイタリア守備隊は20,000の軍に攻められると思い込み、マッサワに向けて援軍の要請を行っていた。マッサワのイタリア軍はその要請に応え、540名と機関銃二丁からなるクリストフォリス隊を応援に向かわせる。クリストフォリス隊はゆるやかな速度で前進し、マッサワからサハティまでの中間点となるドガリに到着した。しかし、運悪く北進を続けるアルラの知るところとなり、これを逃す理由はアルラにはなかった。夜のうちに10,000の兵士によって完全な包囲網が敷かれ、朝焼けの中でクリストフォリス隊は壊滅した。540人中450人が戦死し、83人が負傷したことで事実上部隊は消滅する。しかしこのドガリの戦いを、イタリアは「残忍で卑劣な蛮族のだまし討ち」とし、ドガリの虐殺としてエチオピア軍とアルラを非難した。イタリアはこれにより自らの侵攻を蛮族を文明化する手段として正当性し、同時に国内のナショナリズムの高揚を促して志願兵を増加させた。 このドガリの戦い以降、イタリア軍とラス・アルラの戦闘は停滞状態に陥る。ヨハンネスは次々と兵を編成するものの旧式以前の装備すら調達できず、小規模な衝突ではイタリア軍に度々敗れた。アルラの指揮でも戦略目標であるエリトリアの奪回はほぼ不可能であり、さらにエリトリアは元々オスマン・トルコに支配されてきたエチオピアと関係の薄い土地で、民衆によるエチオピア復帰のための扇動も望めなかった。一方イタリア軍も支配領域を広げるには兵力が欠乏し、補給線を脅かすアルラの動きでサハティに閉じ込められていた。やがてこの戦いはイタリアのエリトリア支配という現状を追認するウッチャリ条約を結び停戦するまで睨みあいに終始した。
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エリトリア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
1887年1月24日、ヨハンネスのエチオピア軍とイタリア軍がついに衝突する(エリトリア戦争)。これはイタリアが1885年にマッサワを占領し、さらにはヨハンネスの支配するサハティに軍を送ったのが発端だった。ヨハンネスは交渉で解決する道を模索したが、イタリアは外交使節団を送りながらも返事を保留し、その間にイタリアの将軍ジュネーを動かしてヨハンネス領のワハーウィアを占領した。エチオピアの軍事と外交を一任されていた指揮官ラス・アルラはイタリア外交使節団に対し、ジュネーの撤退に同意するよう20,000人の兵力を背景に迫り、「さもなければサハティを攻略する」と最後通牒を突きつけた。イタリアはアルラに対して領土的野心をもっていないと釈明したものの、肝心のサハティからは軍を引くことはなかった。アルラは同年1月24日、総兵力のうち10,000人をサハティへ向ける。サハティには要塞が構築されており、イタリア軍は大砲と機関銃を備えて立てこもっていた。アルラは無理して攻撃をしかけず、これを素通りしてジュネー将軍のいるマッサワ方面へ向けて進み続ける。一方、イタリアのサハティ守備隊は大軍を前にして援軍を要請していた。その要請を受けて救援に動いたのは、イタリアのクリストフォリス隊540人だった。だが、マッサワとサハティの間に位置するドガリに到着してしばらくして、クリストフォリス隊はエチオピア軍に包囲されていることに気づく。10,000人の兵に囲まれて、クリストフォリス隊は逃げることすらできなくなっていた。こうして、クリストフォリス隊はアルラの迅速な包囲を前になす術もなく殲滅され、540人中450人が戦死するという惨憺たる被害を受けた(ドガリの戦い(イタリア語版、英語版))。この一方的な敗戦を、イタリアは「ドガリの虐殺」と呼んでエチオピアを非難する。エチオピアの戦法を「卑怯極まりない」不意打ちと責め、「エチオピア人は残酷な野蛮人である」と決め付けて喧伝の材料とした。しかし、研究が進むにつれ、エチオピアの進軍先に何の警戒もなく入り込んだイタリア軍の軽率さと、エチオピアのアルラによる遭遇戦における適切な指揮が明らかとなる が、政治的にこの事件を利用しようとするイタリアの帝国主義者にとって、事実か否かは問題ではなかった。イタリア国内ではナショナリズムの高まりが生じ、エチオピアへの対抗としてエリトリアの兵力を20,000人と大幅に増員する。ヨハンネスも対抗して100,000人を号する大軍を動員し、両軍は危うい均衡の中で小康状態となる。この火種は、後のアドワの戦いへ向かう要因の一つとなった。
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