エリトリア戦争とは? わかりやすく解説

エリトリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 01:48 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
エリトリア戦争

ドガリの戦い
戦争:エリトリア戦争
年月日1885年2月5日 - 1889年5月2日
場所エリトリア
結果:イタリアの勝利、エリトリア占領
ウッチャリ条約締結。
交戦勢力
イタリア王国 エチオピア帝国
戦力
2万5000人 12万5000人
損害
6000人 6500人

エリトリア戦争(エリトリアせんそう、イタリア語: Guerra d'Eritrea)は、1885年から1889年にかけて行われた、イタリア王国エチオピア帝国戦争

イタリア王国にとって最初の植民地戦争で、敗れたエチオピアはエリトリア地方の割譲を認めるウッチャリ条約をイタリアと締結した。

概要

1880年代、アフリカへの領土欲を持っていたイタリア王国は、列強植民地化を逃れていたエチオピア帝国と急速に対立した。既にスエズ運河の開鑿やエジプトとの関連からエチオピアの紅海沿岸部を欲したイタリアは民間会社(後に国営化された)を通じて大規模な土地購入を行い、入植を開始していた。1885年2月、エチオピア皇帝ヨハンネス4世はこれに反発して軍の動員を開始し、イタリア王国もマッサワなど幾つかの都市に陸軍を上陸させた。ヨーロッパではドガリの虐殺と呼ばれる[1]ドガリの戦いイタリア語版英語版などの数年の紛争や小戦闘を経て最終的にイタリアはエチオピアを軍事的に屈服させ、沿岸部の実効支配を開始した。

1890年、エチオピアでヨハンネス4世の義妹の子マンガッシャとショアの王メネリク2世との間で帝位を巡る内戦が発生した。イタリアの武器供給を受け、内戦に勝利を収めて新たな王となったメネリクは正式に講和条約(ウッチャリ条約)に署名し、紅海沿岸部をイタリア領エリトリアとして割譲した。

イタリア領エリトリアの通貨「エリトリア・タレーロ」に彫られたウンベルト1世

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 岡倉登志『二つの黒人帝国』1987年6月、東京大学出版会、P168

関連項目


エリトリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/23 20:24 UTC 版)

ラス・アルラ」の記事における「エリトリア戦争」の解説

1883年イタリアエリトリア植民地化宣言するエリトリアエチオピアと北に国境接す隣国であり、ラス・アルラ属すティグレエチオピア北端にあるため至近の距離にある地域であった。この時期イタリアアフリカの角呼ばれるソマリア南部をすでに保護領としており、エチオピアイタリア植民地に北と東から侵食されるとなっていた。またイタリア依然としてエチオピア第二位地位にあるメネリク2世接近しエチオピアへの介入本格化させていく。メネリク2世軍隊近代化必要性からイタリア独自に通商条約結んだ。これにより植民地化好機見たイタリア1885年エリトリアマッサワ占領しヨハンネス4世領土へも軍隊向けてエチオピア領のサハティ占拠する。そのためヨハンネスはイタリアとの対決決意しラス・アルラ軍事外交全権預けて対イタリア責任者任命したアルラはその権限において20,000の軍を編成する。しかしこの当時イタリア積極的な通商行って新型ライフル揃えたショワのメネリクとは対照的にエチオピア軍の装備旧式ライフルがほとんどであった。だがイタリア期待したメネリク2世も本心では植民地化拒絶しており、その期待をよそに中立守り続ける。また、メネリク2世離縁した妻に代わってラス・アルラの妹タイトゥを後妻迎え、ヨハンネスとの緊張緩和努めたメネリクの妻となったタイトゥはアルラ似て気丈な女性で、直情的な夫を度々諌めて勢力融和取り持ったメネリク2世 タイトゥ 国内安定を受け、20,000の軍を編成したアルラだったが、イタリア占拠されサハティにすぐには向かわなかった。サハティはすでにイタリア軍機関銃陣地築き上げており、その攻略困難さ把握していた。そのため軍を動かしたのは1887年入ってからであり、半分10,000サハティへの押さえ残しつつ、残り10,000進路サハティではなくイタリア軍補給拠点があるマッサワ方面向けた。しかしこのエチオピア軍の動きに、サハティイタリア守備隊20,000の軍に攻められる思い込みマッサワ向けて援軍要請行っていた。マッサワイタリア軍はその要請応え540名と機関銃二丁からなるクリストフォリス隊を応援向かわせる。クリストフォリス隊はゆるやかな速度前進しマッサワからサハティまでの中間点となるドガリに到着した。しかし、運悪く北進続けアルラの知るところとなり、これを逃す理由アルラにはなかった。夜のうちに10,000兵士によって完全な包囲網敷かれ朝焼けの中でクリストフォリス隊は壊滅した540人中450人が戦死し83人が負傷したことで事実上部隊消滅する。しかしこのドガリの戦いを、イタリアは「残忍卑劣な蛮族だまし討ち」とし、ドガリの虐殺としてエチオピア軍とアルラ非難したイタリアはこれにより自らの侵攻蛮族文明化する手段として正当性し、同時に国内ナショナリズム高揚促して志願兵増加させた。 このドガリの戦い以降イタリア軍ラス・アルラ戦闘停滞状態に陥る。ヨハンネスは次々と兵を編成するものの旧式以前装備すら調達できず、小規模な衝突ではイタリア軍に度々敗れたアルラ指揮でも戦略目標であるエリトリア奪回はほぼ不可能であり、さらにエリトリアは元々オスマン・トルコ支配されてきたエチオピアと関係の薄い土地で、民衆によるエチオピア復帰のための扇動望めなかった。一方イタリア軍支配領域広げるには兵力欠乏し補給線を脅かすアルラ動きサハティ閉じ込められていた。やがてこの戦いイタリアエリトリア支配という現状追認するウッチャリ条約を結び停戦するまで睨みあいに終始した

※この「エリトリア戦争」の解説は、「ラス・アルラ」の解説の一部です。
「エリトリア戦争」を含む「ラス・アルラ」の記事については、「ラス・アルラ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「エリトリア戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エリトリア戦争」の関連用語

エリトリア戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エリトリア戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエリトリア戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラス・アルラ (改訂履歴)、エチオピアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS