エリトリア戦争
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ナビゲーションに移動 検索に移動エリトリア戦争 | |
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![]() ドガリの戦い | |
戦争:エリトリア戦争 | |
年月日:1885年2月5日 - 1889年5月2日 | |
場所:エリトリア | |
結果:イタリアの勝利、エリトリア占領 ウッチャリ条約締結。 | |
交戦勢力 | |
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戦力 | |
2万5000人 | 12万5000人 |
損害 | |
6000人 | 6500人 |
エリトリア戦争(エリトリアせんそう、イタリア語: Guerra d'Eritrea)は、1885年から1889年にかけて行われた、イタリア王国とエチオピア帝国の戦争。
イタリア王国にとって最初の植民地戦争で、敗れたエチオピアはエリトリア地方の割譲を認めるウッチャリ条約をイタリアと締結した。
概要
1880年代、アフリカへの領土欲を持っていたイタリア王国は、列強の植民地化を逃れていたエチオピア帝国と急速に対立した。既にスエズ運河の開鑿やエジプトとの関連からエチオピアの紅海沿岸部を欲したイタリアは民間会社(後に国営化された)を通じて大規模な土地購入を行い、入植を開始していた。1885年2月、エチオピア皇帝ヨハンネス4世はこれに反発して軍の動員を開始し、イタリア王国もマッサワなど幾つかの都市に陸軍を上陸させた。ヨーロッパではドガリの虐殺と呼ばれる[1]ドガリの戦いなどの数年の紛争や小戦闘を経て最終的にイタリアはエチオピアを軍事的に屈服させ、沿岸部の実効支配を開始した。
1890年、エチオピアでヨハンネス4世の義妹の子マンガッシャとショアの王メネリク2世との間で帝位を巡る内戦が発生した。イタリアの武器供給を受け、内戦に勝利を収めて新たな王となったメネリクは正式に講和条約(ウッチャリ条約)に署名し、紅海沿岸部をイタリア領エリトリアとして割譲した。
脚注
- ^ 岡倉登志『二つの黒人帝国』1987年6月、東京大学出版会、P168
関連項目
エリトリア戦争
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1883年、イタリアがエリトリアの植民地化を宣言する。エリトリアはエチオピアと北に国境を接する隣国であり、ラス・アルラの属するティグレはエチオピア北端にあるため至近の距離にある地域であった。この時期、イタリアはアフリカの角と呼ばれるソマリア南部をすでに保護領としており、エチオピアはイタリアの植民地に北と東から侵食される形となっていた。またイタリアは依然としてエチオピア第二位の地位にあるメネリク2世に接近し、エチオピアへの介入を本格化させていく。メネリク2世も軍隊の近代化の必要性からイタリアと独自に通商条約を結んだ。これにより植民地化の好機と見たイタリアは1885年、エリトリアのマッサワを占領し、ヨハンネス4世の領土へも軍隊を向けてエチオピア領のサハティを占拠する。そのためヨハンネスはイタリアとの対決を決意し、ラス・アルラに軍事と外交の全権を預けて対イタリアの責任者に任命した。アルラはその権限において20,000の軍を編成する。しかしこの当時、イタリアと積極的な通商を行って新型ライフルを揃えたショワのメネリクとは対照的に、エチオピア軍の装備は旧式ライフルがほとんどであった。だがイタリアの期待したメネリク2世も本心では植民地化を拒絶しており、その期待をよそに中立を守り続ける。また、メネリク2世は離縁した妻に代わってラス・アルラの妹タイトゥを後妻に迎え、ヨハンネスとの緊張緩和に努めた。メネリクの妻となったタイトゥはアルラに似て気丈な女性で、直情的な夫を度々諌めて両勢力の融和を取り持った。 メネリク2世 タイトゥ 国内の安定を受け、20,000の軍を編成したアルラだったが、イタリアに占拠されたサハティにすぐには向かわなかった。サハティはすでにイタリア軍が機関銃陣地を築き上げており、その攻略の困難さを把握していた。そのため軍を動かしたのは1887年に入ってからであり、半分の10,000をサハティへの押さえで残しつつ、残りの10,000の進路をサハティではなくイタリア軍の補給拠点があるマッサワ方面に向けた。しかしこのエチオピア軍の動きに、サハティのイタリア守備隊は20,000の軍に攻められると思い込み、マッサワに向けて援軍の要請を行っていた。マッサワのイタリア軍はその要請に応え、540名と機関銃二丁からなるクリストフォリス隊を応援に向かわせる。クリストフォリス隊はゆるやかな速度で前進し、マッサワからサハティまでの中間点となるドガリに到着した。しかし、運悪く北進を続けるアルラの知るところとなり、これを逃す理由はアルラにはなかった。夜のうちに10,000の兵士によって完全な包囲網が敷かれ、朝焼けの中でクリストフォリス隊は壊滅した。540人中450人が戦死し、83人が負傷したことで事実上部隊は消滅する。しかしこのドガリの戦いを、イタリアは「残忍で卑劣な蛮族のだまし討ち」とし、ドガリの虐殺としてエチオピア軍とアルラを非難した。イタリアはこれにより自らの侵攻を蛮族を文明化する手段として正当性し、同時に国内のナショナリズムの高揚を促して志願兵を増加させた。 このドガリの戦い以降、イタリア軍とラス・アルラの戦闘は停滞状態に陥る。ヨハンネスは次々と兵を編成するものの旧式以前の装備すら調達できず、小規模な衝突ではイタリア軍に度々敗れた。アルラの指揮でも戦略目標であるエリトリアの奪回はほぼ不可能であり、さらにエリトリアは元々オスマン・トルコに支配されてきたエチオピアと関係の薄い土地で、民衆によるエチオピア復帰のための扇動も望めなかった。一方イタリア軍も支配領域を広げるには兵力が欠乏し、補給線を脅かすアルラの動きでサハティに閉じ込められていた。やがてこの戦いはイタリアのエリトリア支配という現状を追認するウッチャリ条約を結び停戦するまで睨みあいに終始した。
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