ソマリア、エリトリア戦争とは? わかりやすく解説

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ソマリア、エリトリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)

エチオピアの歴史」の記事における「ソマリア、エリトリア戦争」の解説

メンギスツ政権ソ連支援を受ける一方アメリカ帝国主義、EPRP、ハイレ・セラシエから続く保守勢力ら、根絶できない敵を抱えて政権運営行い1974年から続いていたオガデン飢餓に対してしばらく手を打っていなかったが、ようやく18難民キャンプ設置して飢えた70万人救済乗りこんだ。だが、メンギスツ民族主義によって、エチオピア監視下ではイスラム教習慣を行うことが許されず、大多数オガデン人はキャンプ出てイスラム諸国助け求めようとした。その動きオガデン分離独立その後ソマリアへの併合を望む「西ソマリア解放戦線 (WSLF)」にとって好都合で、ソマリア政府はWSLFを援助するとともに1977年には自らオガデン砂漠通過してエチオピア領内侵攻したエチオピアソ連支援受けていたのに対しソ連からの支援打ち切られソマリア軍はアメリカの援助受けた冷戦構造そのもの戦争は、決着まで11年間かかる泥沼の戦いとなった戦争1988年停戦という形で終結するが、残されたもの以前変わらぬ国境線難民によって衰退したオガデンの町、そして疲弊しきった両政府けだった国家統一方針により、強制的にエチオピア一州併合されエリトリアだったが、独立目指すELF, EPLF, ELF-PLFらのゲリラ戦衰え気配見せず、さらにエチオピアから逃れたEPRPがエリトリア潜伏したことでメンギスツ悩みの種となったEPLF1976年スーダン国境の町カロラ[要曖昧さ回避]で政府軍壊滅させると、翌年には政府重要な補給基地アファベト陥落させた。破竹の勢いEPLFには、他のエリトリア独立派からも続々流入しEPLFにほぼ一本化されたエリトリア独立勢力に対してエチオピア軍はアスマラ篭城して防衛専念するしかなかった。

※この「ソマリア、エリトリア戦争」の解説は、「エチオピアの歴史」の解説の一部です。
「ソマリア、エリトリア戦争」を含む「エチオピアの歴史」の記事については、「エチオピアの歴史」の概要を参照ください。

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