泥沼の戦い
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泥沼の戦い(どろぬまのたたかい、Jangi loy)とは、1365年にティムールが率いる西チャガタイ・ハン国のアミールの連合軍とモグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の間で起きた戦闘である。モグーリスタン・ハン国が勝利を収め、ティムールにとって数少ない敗戦となった[1]。
1364年の石橋の戦いで勝利を収めたティムールはモグーリスタン・ハン国の勢力をシルダリヤ川以北に押し返し[2]、1365年にイリヤース・ホージャが率いるモグール軍は再びマー・ワラー・アンナフルに遠征した[3]。ティムールと彼の同盟者のアミール・フサインはこの軍を迎撃するためにタシュケントに向かった。
チナズとタシュケントの間の河岸で両軍は交戦したが、戦場は豪雨に見舞われ、地面はぬかるみになっていた[4]。ティムール朝の史料には、モグール軍が激しい風雨を起こす魔力を持つ「ジャダ石」を使用した伝説が記されている[2]。あらかじめ豪雨を予測していたモグール軍は前もって対策をし、逆に雨水をしのぐ手立てがなかったティムールらの兵士は体力を奪われ、弓の弦にも水が染み込んで使い物にならなかったという[4]。
ティムールとアミール・フサインはサマルカンドまで後退したが、抵抗を諦めてアムダリヤ川を渡り、バルフ方面に退却した。進軍を続けるモグール軍はサマルカンドを包囲したが、サルバダールが指導するサマルカンド市民の頑強な抵抗にあって撤退した[5]。
脚注
参考文献
- 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』北海道大学図書刊行会、1999年。
- 川口琢司『ティムール帝国』講談社〈講談社選書メチエ〉、2014年。
- ラフマナリエフ, ルスタン 加藤九祚訳 (2008), “チムールの帝国”, in 加藤九祚, アイハヌム, 2008, 東海大学出版会
- Roux, Jean-Paul (1991) (フランス語). Tamerlan. Fayard. ISBN 978-2-213-02742-5 2024年1月18日閲覧。
- Grousset, René (1970). The Empire of the Steppes: A History of Central Asia. Rutgers University Press. ISBN 978-0-8135-1304-1 2024年1月18日閲覧。
泥沼の戦い(スペイン独立戦争)
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「ナポレオン戦争」の記事における「泥沼の戦い(スペイン独立戦争)」の解説
詳細は「半島戦争」を参照 スペインはフランスと同盟し、トラファルガーの海戦や1807年のポルトガル侵攻でも共に戦ってきたが、国内では国王カルロス4世とその子フェルナンド7世が対立していた。1808年、ナポレオンは両者を幽閉し、代わって自分の兄のジョゼフを王位に就けた。これに反発した民衆は、5月2日にマドリードで蜂起。やがて反乱はスペイン全土に拡大する。反乱を支援するためイギリスはアーサー・ウェルズリー(後の初代ウェリントン公爵)らの部隊を派遣する。 11月、ナポレオンは自ら20万の大軍を率いてスペインへ侵攻、1809年1月までにイギリス軍を駆逐し、後事をスルトに託して帰還した。だがその後もスペイン側はゲリラ戦とイギリスの支援により根強い抵抗を続けた。このスペイン独立戦争(1808年-1814年)は泥沼の戦争となり、フランスは大軍を貼り付けにした挙句、最終的には敗退する。
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