テガーザ塩鉱問題とソンガイ帝国の攻略
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「サアド朝」の記事における「テガーザ塩鉱問題とソンガイ帝国の攻略」の解説
サアド朝とソンガイ帝国は、アフマド・アル=アアラジュの時代からソンガイ帝国のイスハーク1世(在位:1539年 - 1549年)と現マリ共和国の北端、サハラ砂漠中にあるテガーザの岩塩を巡って所有権争いをしていた。アフメッド=ル=アレジの頃、王弟ムハンマド・アッ=シャイフによる占領を阻止し、逆にトゥアレグ族の騎馬隊を使ってモロッコに侵攻させた。アフマド・アル=マンスール王も引き続きその所有権を主張し続け、当初はソンガイのアスキア・ダーウード(在位:1549年 - 1583年)とソンガイ帝国の利権と所有を保証することでとりあえずの妥協をしていた。しかし、サアド朝にとって、ソンガイの領有する西スーダンの塩と金とその交易ルートを支配し、黒人奴隷を獲得することは経済的に非常に魅力的な話であった。マンスール王は、アスキア・ダーウードが死に、ムハンマド3世(在位:1583年 - 1586年)が継ぐと、ソンガイ攻略の機会をうかがい、テガーザを占領、1585年に2000人の先遣部隊にソンガイ国内の様子を探らせた。ムハンマド4世(在位:1586年 - 1588年)が即位すると、ソンガイ国内で内乱が起こり、弱体化が始まった。マンスール王は、内外の情勢を検討し、アルジェリア方面への遠征はトルコを刺激し、泥沼の戦いになるが、西スーダンのソンガイ攻略については、トルコは関知せずの態度をとるだろうと判断していた。1590年、機は熟したと判断した王は、西スーダン遠征について、閣僚に諮った。当初閣僚たちは、押し黙っていたので、王は、反対だとしたら何故かと問うと、渡り鳥さえ力尽きて落ちるという環境の厳しいサハラ砂漠へ大軍を送れるのかということと、遠征中のトルコの干渉を恐れる意見を述べた。王は、隊商が通れる道を軍隊が通れないはずがあろうか、またトルコは、南回りでモロッコ攻略するような冒険はしない、と主張し、1590年12月29日、火縄銃を装備した歩兵2000、同じ装備の騎兵500、槍と投げ槍装備の騎兵1500、8000頭のラクダと1000頭の馬という大軍を出発させた。隊長は、パシャ・ジェデルというキリスト教からの改宗者で遠征部隊自体にもキリスト教からの改宗者を多く含んでいた。1591年3月1日、遠征軍は、ついにサハラを踏破したが、厳しい環境のため、1000人あまりに減っていた。しかし、火縄銃という火器を持っているモロッコ軍は、盾と槍しか知らないソンガイ軍を打ち破った。3月21日の会戦でソンガイ王イツハーク2世は、大敗し逃走した。翌1592年4月に殺され、ソンガイ帝国は完全に滅亡することになる。モロッコ軍は、1591年4月25日に待望のトンブクトゥ入城を果たすが、トンブクトゥは廃れた極貧の町になっていた。実は、ソンガイ帝国は、1580年代に入って、王位継承争いのみならず旱魃、洪水、疫病の頻発によって荒廃していたのだった。1599年、ソンガイの属国になっていたマリ帝国のマフムード4世は、ソンガイ崩壊の混乱状態に乗じてジェンネを奪回し、かつての繁栄を取り戻そうと試みたが、武器に勝るモロッコ軍に打ち破られ、今度こそ見る影もない小国に分裂していった。サアド朝はその後、22年間、トンブクトゥの太守(パシャ)を任命し続ける。任命太守がいなくなってからも、旧ソンガイ領を支配したモロッコ人部隊は、サアド朝が滅んで100年以上も経った1780年頃まで彼ら自身の中から太守を選任し、周辺部族から税を取り立て続けた。西スーダンの征服は、サハラ越えの交易ルートの安定化につながり、サアド朝の威信を高めた。黄金や象牙の流入も以前より容易になり、マンスール王の死後もサアド朝は、しばらくは経済的な繁栄を謳歌することができた。
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