テカムセの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:22 UTC 版)
10月4日、テカムセらはチャタムの近くでアメリカ軍と小競り合いを演じ、アメリカ軍の歩みを遅らせようとした。インディアン戦士たちは直ぐに圧倒され、プロクターの副官オーガスタス・ウォーバートンはその物資・弾薬をアメリカ軍に奪われてしまった。10月5日、プロクターはモラビアタウンで正規兵の戦列を布き、大砲でアメリカ軍を道路から追い出してテムズ川の堤に追いやろうと考えた。ショーニー族の戦士はイギリス軍の右手にある沼地に終結してアメリカ軍の側面を衝こうとした。ハリソン将軍は戦場を調べて、ジェイムズ・ジョンソン(リチャード・メンター・ジョンソンの弟)にイギリス軍の正面からの攻撃を命じた。ジョンソンはインディアンの側面からの攻撃をものともせずに突破し、イギリス軍の大砲も使えなくした。即座にプロクターとイギリス軍は撤退を始めたが、多くの者がそこで降伏した。テカムセたちは踏み止まって戦いを続けた。 リチャード・ジョンソンが20騎の騎兵の先頭に立ち、アメリカ軍の主力の動きから気を逸らせようとインディアンに攻撃を掛けたが、テカムセたちショーニー族戦士がマスケット銃の一斉射撃を行い騎兵の攻撃を食い止めた。ジョンソン隊の15名が死傷し、ジョンソンも銃弾5発を受けた。ジョンソン隊は沼地の泥に嵌って動けなくなっていた。 英雄テカムセは、この戦闘中に殺された。ジョンソン大佐がテカムセの殺害者かもしれないが、確たる証拠は無い。ウィリアム・ホワイトリーというアメリカ独立戦争の古参兵が、テカムセを殺したもう一人の者とされている。ホワイトリーはケンタッキーのクラブ・オーチャード生まれで、テカムセたちインディアン攻撃に志願していた。ホワイトリーはテカムセの死体が見つかった時に、その頭皮を剥いでテカムセの妻に送ることをハリソン将軍に求めた。アメリカ軍の主力が沼地を制圧し、ジェイムズ・ジョンソン部隊はイギリス軍の反撃から逃れた。アメリカ軍の増援が集結し、テカムセが戦死したという報せは急速に広まり、インディアンの抵抗は雲散霧消した。 このどさくさに、白人騎兵隊がモラビアタウンを焼き払った。この町は戦闘になんの関与もしていなかったキリスト教マンシー族インディアンの平和な集落であった。 イギリス軍は12名が戦死、35名が負傷後に捕虜となり、442名が降伏した。インディアンは33名の戦士が戦死した。イギリス軍は疲れ切って戦意を失くし、半分は飢えたままで1回きりの一斉射撃を返して3名のアメリカ兵を負傷させ、その後に退散した。アメリカ軍の損失の他の部分はインディアンによるものだった。インディアンも士気が衰えていたが、自分たちの領土での生活権がかかっている彼らは、イギリス軍よりははるかに強い決意で戦っていた。
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