テカムセの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:30 UTC 版)
1811年、テカムセはショーニー族の若き戦士として、合衆国に戦いを挑んだ。白人たちはテカムセをショーニー族の「戦闘司令官」(そんなものは存在しない)だと勘違いしたので、テカムセの関わった一連の植民地戦争に「テカムセの戦い」という名をつけたのである。 テカムセ達が最初に合衆国に挑んだ戦いは、「ティピカヌーの戦い」と呼ばれている。このショーニー族の抵抗戦はウィリアム・ハリソン率いる合衆国政府軍に敗れ、テカムセたちは当時イギリスの植民地だったカナダに逃れた。 ショーニー族連合は、カナダでイギリス軍と同盟した。このことが合衆国軍を刺激し、1812年には英米はインディアンの領土を奪い合う代理戦争「米英戦争」を始めた。その一人、アイザック・ブロックは、カナダの開拓者達よりも、イギリス軍正規兵やテカムセのインディアン戦士と共に戦う方を好んだ。ブロックがテカムセや他のインディアン同盟軍に見せた態度は注目に値する。テカムセの支援を得るために、ブロックはショーニー族に対して多くの約束をした。独立した母国を指向するショーニー族への相談無しでは停戦の交渉を行わないと約束した。テカムセの支援が必要だったブロックにとってこれは疑いもない条件であったが、ブロックが裏切って交渉したという証拠もない。また、テカムセはブロックを信頼し尊敬しており、初めての会合の後で、「これが男だ」と言ったと伝えられている。ブロックの交わした文書を見れば、ブロックがインディアンを父親のような謙りでみていたことが分かるが、テカムセ自身を非常に高く評価していた。ブロックはテカムセを「インディアンのウェリントン公」と呼び、「テカムセより賢明で勇敢な戦士はいないと信じる」と言った。インディアン達にもそれなりの尊敬の念で接した。ブロックの個人的な高潔さは文書にも表されており、ブロックが生きておればインディアンの故郷についてショーニー族に約束したことを守ったであろうことがわかる。テカムセはブロックへ派手なスカーフを贈ってもいる。ブロックが1812年10月13日のクィーンストン・ハイツの戦いで戦死した後に行なわれた10月16日の葬送にはインディアン達が道に両側に並んだ。 テカムセたちはイギリス軍と共にデトロイトを攻略するなど戦果を上げた。しかし、オリバー・ハザード・ペリー率いる合衆国軍がエリー湖の戦いで勝利すると、イギリス側は補給線を絶たれ、苦戦を余儀なくされた。さらに、イギリス軍の司令官が戦死し、テカムセたちに協力的でないヘンリー・プロクター(Henry Procter)が後任となったため、テカムセ達はイギリスの後ろ盾を失い、苦しい戦いを余儀なくされた。 1813年、ショーニー族と連合部族、イギリス軍は「テムズの戦い」で合衆国軍に敗れた。その後まもなく、テカムセはリチャード・メンター・ジョンソン(後の副大統領)に殺され、その死によって「テカムセの戦争」と白人が呼ぶインディアン戦争は終わった。
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