テカムセ、クリーク戦争および米英戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:41 UTC 版)
「インディアン戦争」の記事における「テカムセ、クリーク戦争および米英戦争」の解説
アメリカ合衆国はグリーンビル条約の後も次々とインディアンの土地の権利を奪っていったので、インディアン社会では大きな脅威となっていた。1800年、インディアナ準州知事及びインディアン対策局長官に就任したウィリアム・ハリソンは、トーマス・ジェファーソン大統領の指示でインディアンの土地取得を加速させることとなり、1803にはウェイン砦の条約(英語版)、ヴィンセンス条約(英語版)、1809年にはもう1件のウェイン砦の条約(英語版)を締結する形で12,000平方キロメートル以上もの新たな土地の領有権を主張した。これに対し、ショーニー族の兄弟テカムセとテンスクワタワ(英語版)は合衆国の拡張に対する抵抗を呼びかけた。テカムセの目的はインディアン達が土地を売ることを止めさせることだった。 テカムセが南部に行って、クリーク族、チェロキー族およびチョクトー族の中で同盟者を募っている間に、ハリソンはインディアン同盟に戦いを挑み、1811年のティッペカヌーの戦いでテンスカタワたちを打ち破った。合衆国はこの勝利で武力による抵抗が収まることを期待したが、テカムセたちはイギリス軍と同盟して、米英戦争の中で合衆国に対する戦いを始めた。 独立戦争の時と同様に、米英戦争では西部戦線で大規模なインディアン戦争となった。テカムセに同調したクリーク族は、当初クリーク族内の内戦から始まったクリーク戦争で合衆国の拡張政策に激しく抵抗することになった。米英戦争におけるイギリスとの戦いは手詰まりの様相を呈したが、合衆国は西部戦線ではそこそこの成功を収めた。テカムセはテムズの戦いでハリソン軍に殺され、北西部での抵抗は終わった。合衆国に反攻したクリーク族も敗れた。1818年の第一次セミノール戦争はある意味でクリーク戦争の延長であったが、最終的には1819年に合衆国がフロリダを占領することになった。 独立戦争や北西インディアン戦争と同様に米英戦争の後も、イギリスはインディアンに対する同盟を放棄した。これはインディアン戦争にとっては大きな転機であり、インディアンはアメリカ合衆国に対する戦いで外国の力を宛てにできなくなった。
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