ティッペカヌーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 04:51 UTC 版)
「テカムセの戦争」の記事における「ティッペカヌーの戦い」の解説
テカムセが南部にいる間に、ハリソン知事は1,000名以上の部隊を引き連れ、ビンセンズからウォバッシュ川を遡ってテンスカタワとその仲間を脅そうとした。ハリソン隊は途中で今日のテレホート近くにハリソン砦を造った。ハリソン砦にいる間に、陸軍長官のウィリアム・ユースティスからの命令が届いた。それは「もし必要ならばプロフェッツタウンにインディアン達を追い払うために武力を行使しても良い」というものだった。1811年11月6日遅くにハリソン隊がプロフェッツタウンの外に到着した時、一人の若いインディアンが白旗を振りながら馬で町の外に現れた。そのインディアンは、和平のための会合をもつために翌日まで戦闘をしないことを要求するテンスカタワの伝言を伝えた。ハリソンは同意したが、テンスカタワの調停案を疑い、夜通し歩哨を立てていた。テンスカタワ達は、恐らくハリソンが彼らの集落を襲おうと考えていると思い、先制攻撃を撃つ賭けに出ることを決め、約500名の戦士がアメリカ軍の宿営地に向かった。 どのようにしてその戦闘が始まったのか現存する資料では正確なところが不明であるが、ハリソンの立てた歩哨が11月7日の夜明け前に進軍してくるインディアン戦士に遭遇した。ハリソンの兵士たちが銃声を聞いて目覚めた時、すでにインディアンに囲まれかけていることが分かった。激しい戦闘が起こり、インディアン戦士がハリソン隊の防衛線を突き破り宿営地の中まで入って来た。歩哨たちが宿営地に逃げ帰ってくると、兵士達は直ぐに自発的に集団を作り、防衛線を確保しながら反撃を開始した。この日の朝の間、ハリソン隊は何度も攻撃を跳ね返し、遂にインディアン戦士は撤退した。ハリソン隊は68名が戦死または瀕死の重傷となり、また約120名が負傷した。インディアンの被害は諸説あるが、歴史家の推測では50名以上が戦死し、70ないし80名が負傷した。 テカムセが直ぐにも援軍を連れて帰ってくることを恐れたハリソンはその陣地の防御を固めることを命じた。翌11月8日、ハリソンが少数の兵士にインディアン集落を偵察に行かせると、集落はもぬけの殻だった。インディアンは夜の間に村から抜け出していた。勝ち誇ったアメリカ軍は集落を焼き払いビンセンズに戻った。ハリソン軍の方が損害の大きい戦いではあったが、結果をみればハリソン軍の勝利という解釈がなされた。
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