知事職
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「チャールズ・スコット (州知事)」の記事における「知事職」の解説
州知事としてスコットが先ず行ったことの中に、ブレッドソーを州務長官に指名することがあった。ブレッドソーは1808年12月13日に、スコットの就任演説を議員に配った。その冬遅く、スコットは知事公舎の凍った階段で滑り、負傷した。この怪我のために終生松葉杖に頼ることとなり、その知事としての仕事の多くをブレッドソーに頼るようになった。知事としての任期の間に体調は衰えていった。 州内のことでは、公務員給与の増額、経済開発の手段、再犯性犯罪に対する厳罰を提唱した。州が金を借りる必要性を無くすような税法を望んだが、議会にはできるだけ税を低く抑えるよう奨励した。民兵隊を青年郡に転換することも奨励した。州議会はスコットの改革要求を無視することが多かったが、債務者が保証人と担保権を準備するならば、負債の返還を1年間据え置くことができるようにした法案は成立した。 スコットは議会と度々衝突した。ウォルター・ブラシア博士を州民兵隊第2連隊の中佐に指名するときは、上院がその確認を拒んだ。スコットはブラシアがその任務にあたる最善の者だと言って、他の者を据えることを拒んだ。上院はそれより悪い指名を送って欲しいとは思わないはずだと考えた。その任期中に知事としての拒否権を3回行使したが、3回とも議会に覆された。ハリソン郡を設立する法案、および不法占拠者が有利な条件で土地を購入できる法案について、あまりに性急すぎて十分な議論が尽くされていないと考えたために拒否した。また退任したばかりのケンタッキー州控訴裁判所判事ジョージ・ミューターに対する年金の撤回も拒否した。これは政府の約束に対して住民の信頼を損なうと考えたからだった。 スコットはその任期を通じて、大酒飲みと、不敬な言葉を度々使うという噂に悩まされ続けた。ある場合には、無名の個人が、その評判がスコットの言ったことで傷つけられたと信じ込んで、決闘を申し込んだこともあった。スコットはその挑戦を無視したので、その挑戦者はスコットが臆病者であると暴露すると脅してきた。スコットは、「(その手紙を)投函するとは驚いたね、もうしそうしたら、貴方が呪われるべき嘘つきということになるだけであり、他の誰もがそう言うことだろう」と回答したと考えられている。別の場合では、ブレッドソーがスコットのために書いた演説原稿を精査した後で、「さてブレッドソー君、貴方が私より利口な見識者だと思っていることを知っているよ。それで尊敬されてもいる。しかし、この文章はこのままだと全くうまく行かない。それがうまく行ったとすれば恐れ入るよ」と言った。ブレッドソーがその演説の何処が悪いのか尋ねると、「くそったれ、その最後に厳かな祈りを付け加え、神の摂理について話し、天国の守りについて話してはどうだろう?分かるかい?」と応えたとされている。1809年の州議会選挙で、スコットがハンフリー・マーシャルの対抗馬のために運動した後、マーシャルは「ウェスターン・ワールド」紙に、選挙日に知事が裁判所前に酔って現れたと告発する記事を載せた。 スコットの知事としての任期の大半で、アメリカ合衆国とイギリスの間の緊張関係が高まっていった。アメリカがイギリスに対して宣戦布告すべきという考え方は、ケンタッキー州で特に強かった。州民の大半は1807年の通商禁止法をより弱い1809年の通商停止法に置き換えることや、その後のメイコン法案2号に不満だった。ケンタッキー州選出アメリカ合衆国上院議員ヘンリー・クレイは、議会におけるタカ派の誰もが認める指導者になった。1810年12月4日、スコットは州議会における演説で、アメリカのイギリスに対する憤懣を平和的に解決する望みがほとんど無いことを表明していた。しかし、フランスもアメリカの海洋権を犯しているので、抗議の対象として2つの国を平等に扱うべきことも議会に訴えた。 1811年9月、インディアナ準州知事のウィリアム・ハリソンがケンタッキー州を訪れ、サミュエル・ウェルズ大佐に、当時陸軍長官ウィリアム・ユースティスの権限によって結成されつつあった新しい連邦軍連隊のためにケンタッキー州民を徴兵する指示を出した。ハリソンはケンタッキー州内で徴兵する許可をスコットに申請しておらず、多くのケンタッキー州民、特にスコットの政敵であるハンフリー・マーシャルからスコットの信任ある助言者のジェシー・ブレッドソーまで、この行為を知事に対する侮辱だと捉えた。スコットはブレッドソーの憤慨を無視し、「不作法」令状の発行を拒否して、その代わりに前途有望なハリソンの最も忠実な支持者の1人になった。 1811年11月、ティッペカヌーの戦いで元ケンタッキー州検事総長ジョセフ・ハミルトン・デイビースが戦死した報せが州内に届き、州民のイギリスとインディアンに対する戦争の呼びかけが強さを増した。スコットは連邦政府からの志願兵募集を予測し、1812年2月と4月の州内の新聞に、差し迫った戦争遂行への支持をたきつけるメッセージを掲載した。7月末までに州に割り当てられた志願兵5,500名が集められた。1812年8月14日、スコットは知事公舎前で2個連隊の兵士に挨拶した。これはジョージタウンに連隊が集結する直前のことだった。スコットは兵士の間を松葉づえを突きながら歩き、それから振り向いて邸宅の階段に杖をたたきつけ、「これが貴方達のためでなかったならば、私も若者たちと共に行けたものを」と呟くのが聞かれた。 1812年8月25日はスコットの知事職最後の日であり、この日にハリソンをケンタッキー州民兵隊の名誉少将に指名した。この指名は、次期州知事のアイザック・シェルビーとヘンリー・クレイの助言に基づいてなされた。この名誉昇進によってハリソンが戦争で州民兵隊を指揮することを保証した。北西方面軍の指揮官はジェイムズ・ウィンチェスターだったが、ケンタッキー州内やその部下の中では不人気だった。伝記作者のハリー・M・ウォードはハリソンの任官について、ケンタッキー州民ではなく、少将に対する民兵の割り当ては既に終わっていたという2つの理由で違憲だと指摘している。ケンタッキー州の歴史家ローウェル・H・ハリソンは、この任官が「おそらく違法」だということに同意したが、さらに「州全体で称賛された」ことも付け加えている。スコットとその側近から見せられた信頼感によって、時の大統領ジェームズ・マディソンに影響を与え、ハリソンを北西方面軍の最高司令官に指名することになった。
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