旧北西部領土
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カユホガ・パケットの捕獲(7月2日): デトロイト川でアメリカの商船スクーナーのカユホガ・パケットをイギリス軍が捕獲。アメリカ軍ウィリアム・ハル准将に関わる貴重な情報の詰まった公式文書を積んでいた。ハルはまだ宣戦布告(6月18日)されたことを知らず、カユホガ・パケットを出港させていた ミチリマキノー島の占領(7月17日): イギリス軍がミチリマキノー島のマキノー砦を無血占領。イギリス軍は少数の正規兵、約200名の毛皮交易業者、およびチッペワ族、メノミニー族、オタワ族、スー族、ウィネベイゴ族インディアンの戦士約400名に過ぎなかった。アメリカ軍は1発の銃弾も放つことが無かった ウィリアム・ハルのデトロイト川方面作戦(5月-8月): ウィリアム・ハル准将によるデトロイト川を渡ってアッパー・カナダを侵略する試み。7月12日に川を首尾良く渡った後、アマーストバーグ砦の勢力で劣るイギリス軍に攻撃を掛けることもなく、イギリス軍のアイザック・ブロック少将指揮下の援軍が今にも到着すると知ると、デトロイトまで退却した ミシガン準州ブラウンズタウンでの小競り合い(8月5日): テクムセ指揮下のインディアン戦士25名を含む小部隊が、ワイアンドット族の小さな村(デトロイトの南約20マイル (32 km)、現在のジブラルタル近く) で、200名のオハイオ民兵隊を待ち伏せ勝利した。オハイオ民兵隊はフレンチタウン(現在のモンロー近く)からデトロイトまで輜重隊を護衛していく途中だった ミシガン準州マグアガでの小競り合い(8月9日): この戦争でアメリカ軍が初めてその陣地を守った陸戦。フレンチタウンからデトロイトまでの供給線を再開させるために、マグアガ(現在のワイアンドットに近いワイアンドット族集落)に派遣されたアメリカ軍分遣隊が、イギリス軍に待ち伏せされた。イギリス軍は正規兵と、テクムセ指揮下のインディアン戦士が入っていた。 イリノイ準州ディアボーン砦の虐殺(8月15日): ハル准将がイギリス軍によってマキナック砦が占領されたことを知った後、その命令でディアボーン砦(現在のシカゴにあった)守備隊が砦を出て、インディアナ準州ウェイン砦に向かったときに、ポタワトミ族とメノミニー族インディアン戦士に襲われ虐殺された。ディアボーン砦から南に約1.5マイル (2.4 km) しか進んでいなかった ミシガン準州デトロイトの占領(8月16日): ハル准将が戦わずしてデトロイト砦もろとも降伏した。実際にはアイザック・ブロック少将の指揮する部隊よりも多くの戦力を持っていた。アメリカ軍に衝撃を与え、屈辱的な大敗となった インディアナ準州ピジョンルーストでの虐殺(9月3日): 現在のインディアナポリス市から約100マイル (160 km) 南にあった小さな開拓地を、キカプー族戦士が襲った インディアナ準州ハリソン砦の包囲(9月3日-16日): この戦争で陸上ではアメリカ軍初の勝利。ザカリー・テイラー大尉指揮下の約60名の将兵が守る砦(現在のインディアナ州テレホートのすぐ北、ウォバッシュ川沿い)が、インディアナ準州プロフェッツタウンから来たキカプー族、マイアミ族、ポタワトミ族、ショーニー族、ウィニベイゴ族戦士に攻撃された。ビンセンズからの救援隊が到着し、インディアンは撤退した インディアナ準州ウェイン砦の包囲(9月5日-12日): オタワ族の約600人の戦士がウェイン砦に侵入し攻撃しようとしたが、成功しなかった。砦はインディアナ準州のモーミー川、セントジョセフ川、セントメアリー川の合流点にあった ハリソンの北西部方面作戦(1812年9月17日-1813年10月): デトロイトの前線でハル准将が軍隊の指揮官として大失態を犯した後、旧北西部領土を安定させデトロイトの奪還を目指した作戦。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(1812年8月に准将、1813年3月に少将)は、北西方面軍の指揮官に就く前から、オハイオ州北部で供給基地を設立し、イギリス軍と同盟するインディアンに脅かされていた砦を守るために歩兵部隊を派遣する動きを始めていた。1813年初期にはメグズ砦の建設を監督し、供給線を確保し、エリー湖でアメリカ海軍が勝利した後に、デトロイトを回復した。 インディアナ準州プロフェッツタウンの破壊(11月19日): 現在のインディアナ州ラファイエットの北、ティッピカヌー川とウォバッシュ川合流点近くにあったインディアン集落を、ウィリアム・ハリソン准将の命令で攻撃した。その場所は1811年11月にティッペカヌーの戦いが起こった場所だった。インディアン集落には誰もいなかった インディアナ準州ミシシニワ川沿いの戦闘(12月17日、18日): 現在のインディアナ州マリオン近く、ミシシニワ川がウォバッシュ川に注ぐ地点で、デラウェア族とマイアミ族集落に対する遠征中におきた戦闘
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ミシガン準州第一次フレンチタウンの戦い(1月18日): モーミー川沿いの冬季宿営地(現在のオハイオ州トレド近く)からウィリアム・ハリソン准将が派遣したアメリカ軍分遣隊が、フレンチタウンからカナダ民兵隊とポタワトミ族およびワイアンドット族戦士からなるイギリス軍を追い出した。フレンチタウンはデトロイトの南約25マイル (40 km) のレーズン川河口にある集落だった(現在のミシガン州モンロー近く) ミシガン準州第二次フレンチタウンの戦い(1月22日): イギリス軍の正規兵、民兵インディアン戦士からなる部隊がアメリカ軍部隊に夜明け前の急襲を掛けた。数時間の激しい戦闘の後、アメリカ軍部隊全体の降伏が受け入れられた。翌朝負傷してマルデン砦に搬送させるのを待っていた多くのアメリカ兵が虐殺されたという証言に拠り、レーズン川虐殺と呼ばれるようになった。この敗北によりハリソン准将はデトロイトを奪還するための冬の作戦を中止することになった オハイオ州メグズ砦の包囲戦(5月1日-9日): イギリス軍正規兵、民兵、およびテクムセが指揮する1,000名を超えるインディアン戦士からなるイギリス軍部隊がモーミー川河口(現在のオハイオ州ペリーズバーグ近く)から約12マイル (19 km) の早瀬に築いたばかりの砦を奪おうとして失敗した オハイオ州メグズ砦の包囲(7月21日-28日): イギリス軍により2回目のメグズ砦包囲戦。このときはテクムセ指揮下にフォックス族、メノミニー族、オジブウェ族、オタワ族、サック族、スー族、ウィニベイゴ族の戦士300名以上を集めたが、失敗した オハイオ州ボールの戦い(7月30日): イギリス軍に忠実なインディアン部隊と、スティーブンソン砦に向かっていたアメリカ軍(ジェイムズ・V・ボール少佐指揮下のペンシルベニア志願兵部隊を含む)との間に起きた戦闘。スティーブンソン砦からは南に約8マイル (13 km)、メグズ砦からは南東に35マイル (56 km) にあるセネカ砦近くでおきた オハイオ州スティーブンソン砦に対する攻撃(8月2日): イギリス軍がスティーブンソン砦を占領しようとしたが、失敗した。砦は現在のオハイオ州フレモント近く、サンダスキー川沿いにあった オハイオ州プット・イン・ベイの戦い(9月10日): エリー湖の湖上戦とも呼ばれる画期的な結果を生んだ海戦。オリバー・ハザード・ペリー海軍大佐が指揮するアメリカ戦隊が、ロバート・ヘリオット・バークレイ海軍中佐の指揮するイギリス戦隊を破った。アメリカはエリー湖の支配権を確立した。ローワー・カナダ南西部の供給線を遮断されたイギリス軍は、デトロイトとアマーストバーグ砦を放棄し、東のナイアガラ半島への撤退を強いられた アッパー・カナダのモラビアンタウンの戦い(10月5日): 現在のオンタリオ州チャタムに近い、テムズ川沿いの村落モラビアンタウンで、アメリカ軍が決定的な勝利を挙げた。イギリス軍はデトロイトとアマーストバーグ砦からの撤退途中にあった。テムズの戦いと呼ばれる。この戦闘で、テクムセが戦死し、テクムセが構成した連邦に忠実だったワイアンドット族酋長ラウンドヘッドも戦死した アッパー・カナダ、マクレイの農園での小競り合い(12月15日): モラビアンタウンの南西約25マイル (40 km) で、イギリス軍がアメリカ軍の小部隊に勝利した
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アッパー・カナダのロングウッズでの小競り合い(3月4日): デトロイトからのアメリカ軍騎馬隊が、アッパー・カナダのデラウェア基地から出撃したイギリス軍部隊に止められたが勝利した。オンタリオ湖の西端デトロイト川沿いのアマーストバーグとバーリントンとの中間で起きた アッパーレイクスに対するシンクレアの方面作戦(7月-8月): デトロイト周辺地域からイギリス軍が撤退したことに伴い、アッパーレイクス支配を試みたアメリカ軍の作戦。イギリスの商船3隻を捕獲し、放棄されていたイギリス軍のセントジョゼフ島砦を破壊し、セントメアリー川沿いにあった交易基地を襲撃した事以外、大した成果は無かった。ミチリマキノー砦の奪還には失敗し、帰り道でスクーナー2隻を失った。 アッパー・カナダのセントメアリー川襲撃(7月23日-26日): スペリオル湖とヒューロン湖を繋ぐセントメアリー川沿いで、アーサー・シンクレア海軍大佐の戦隊の一部が行った襲撃。毛皮交易基地1か所を占領し、建物を破壊し、急流の上手でイギリスのスクーナーパーセビアランスを捕獲した。このスクーナーは急流を通ろうとして損傷を受けていたので、燃やされた マキノー島への強襲(8月4日): アッパーレイクスに対するアーサー・シンクレア海軍大佐の方面作戦中で、マキノー島を奪還しようとして失敗した HMSナンシーの破壊(8月13日): ジョージア湾に注ぐノッタワサガ川河口から2マイル (3 km) で、イギリスの商船ナンシーを破壊した。アーサー・シンクレア海軍大佐戦隊から、榴弾砲2門を持って上陸した部隊が遂行した アメリカのスクーナー、タイグレスとスコーピオンの捕獲(9月3日): ロイヤル・ニューファンドランド・フェンシブルの小さな分遣隊と数人の水夫が、ドラモンド島近くでアメリカのスクーナータイグレスとスコーピオンを捕獲した大胆な作戦。タイグレスにはカヌーと平底船で接近した部隊が乗り込んだ。スコーピオンはその数日後にタイグレスの部隊が乗り移って捕獲した アッパー・カナダのマルコームズミルズでの小競り合い(11月6日): テムズ・バレー上流で、カナダ民兵隊と、ダンカン・マッカーサー准将が率いたアメリカ軍部隊が演じた小競り合い。決着は付かなかった。マッカーサーの当初の目的は、ナイアガラの前線にいるイギリス軍に物資を供給しているオンタリオ湖奥に近い町を襲撃することだった。マルコームズミルズでの戦闘後は、南に転じてエリー湖北岸の開拓地を襲撃し、デトロイトに戻った
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