旧北西部領土とは? わかりやすく解説

旧北西部領土

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/09 15:21 UTC 版)

米英戦争の戦闘一覧」の記事における「旧北西部領土」の解説

カユホガ・パケットの捕獲7月2日): デトロイト川アメリカ商船スクーナーのカユホガ・パケットをイギリス軍捕獲アメリカ軍ウィリアム・ハル准将関わる貴重な情報詰まった式文書を積んでいた。ハルはまだ宣戦布告6月18日)されたことを知らず、カユホガ・パケットを出港させていた ミチリマキノー島の占領7月17日): イギリス軍がミチリマキノー島のマキノー砦を無血占領イギリス軍少数正規兵、約200名の毛皮交易業者、およびチッペワ族、メノミニー族、オタワ族スー族、ウィネベイゴ族インディアン戦士400名に過ぎなかった。アメリカ軍は1発の銃弾放つことが無かった ウィリアム・ハルデトロイト川方面作戦5月-8月): ウィリアム・ハル准将によるデトロイト川渡ってアッパー・カナダ侵略する試み7月12日に川を首尾良く渡った後、アマーストバーグ砦の勢力で劣るイギリス軍攻撃掛けるともなくイギリス軍アイザック・ブロック少将指揮下の援軍が今にも到着すると知ると、デトロイトまで退却した ミシガン準州ブラウンズタウンでの小競り合い8月5日): テクムセ指揮下のインディアン戦士25名を含む小部隊が、ワイアンドット族小さなデトロイトの南約20マイル (32 km)、現在のジブラルタル近く) で、200名のオハイオ民兵隊を待ち伏せ勝利したオハイオ民兵隊はフレンチタウン(現在のモンロー近く)からデトロイトまで輜重隊護衛していく途中だった ミシガン準州マグアガでの小競り合い8月9日): この戦争アメリカ軍初めてその陣地守った陸戦。フレンチタウンからデトロイトまでの供給線を再開させるために、マグアガ(現在のワイアンドットに近いワイアンドット族集落)に派遣されアメリカ軍分遣隊が、イギリス軍待ち伏せされた。イギリス軍正規兵と、テクムセ指揮下のインディアン戦士入っていた。 イリノイ準州ディアボーン砦の虐殺8月15日): ハル准将イギリス軍によってマキナック砦が占領されたことを知った後、その命令ディアボーン砦(現在のシカゴにあった守備隊が砦を出てインディアナ準州ウェイン砦に向かったときに、ポタワトミ族メノミニーインディアン戦士襲われ虐殺された。ディアボーン砦から南に約1.5マイル (2.4 km) しか進んでいなかった ミシガン準州デトロイト占領8月16日): ハル准将戦わずしてデトロイトもろとも降伏した実際にアイザック・ブロック少将指揮する部隊よりも多く戦力持っていた。アメリカ軍衝撃与え屈辱的な大敗となった インディアナ準州ピジョンルーストでの虐殺9月3日): 現在のインディアナポリス市から約100マイル (160 km) 南にあった小さな開拓地を、キカプー族戦士襲った インディアナ準州ハリソン砦の包囲9月3日-16日): この戦争陸上ではアメリカ軍初の勝利ザカリー・テイラー大尉指揮下の約60名の将兵が守る砦(現在のインディアナ州テレホートのすぐ北、ウォバッシュ川沿い)が、インディアナ準州プロフェッツタウンから来たキカプー族マイアミ族ポタワトミ族ショーニー族、ウィニベイゴ族戦士攻撃された。ビンセンズからの救援隊到着しインディアン撤退した インディアナ準州ウェイン砦の包囲9月5日-12日): オタワ族の約600人の戦士ウェイン砦に侵入し攻撃しようとしたが、成功しなかった。砦はインディアナ準州のモーミー川、セントジョセフ川、セントメアリー川の合流点にあった ハリソン北西部方面作戦1812年9月17日-1813年10月): デトロイト前線ハル准将軍隊指揮官として大失態犯した後、旧北西部領土を安定させデトロイト奪還目指し作戦ウィリアム・ヘンリー・ハリソン1812年8月准将1813年3月少将)は、北西方面軍の指揮官に就く前から、オハイオ州北部供給基地設立しイギリス軍同盟するインディアン脅かされていた砦を守るために歩兵部隊派遣する動き始めていた。1813年初期にはメグズ砦の建設監督し供給線を確保しエリー湖アメリカ海軍勝利した後に、デトロイト回復したインディアナ準州プロフェッツタウンの破壊11月19日): 現在のインディアナ州ラファイエットの北、ティッピカヌー川とウォバッシュ川合流点近くにあったインディアン集落を、ウィリアム・ハリソン准将命令攻撃したその場所は1811年11月ティッペカヌーの戦い起こった場所だった。インディアン集落には誰もいなかった インディアナ準州ミシシニワ川沿い戦闘12月17日18日): 現在のインディアナ州マリオン近く、ミシシニワ川がウォバッシュ川に注ぐ地点で、デラウェア族マイアミ族集落対す遠征中におきた戦闘

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ミシガン準州第一次フレンチタウンの戦い1月18日): モーミー川沿い冬季宿営地現在のオハイオ州トレド近く)からウィリアム・ハリソン准将派遣したアメリカ軍分遣隊が、フレンチタウンからカナダ民兵隊とポタワトミ族およびワイアンドット族戦士からなるイギリス軍追い出した。フレンチタウンはデトロイトの南約25マイル (40 km) のレーズン河口にある集落だった(現在のミシガン州モンロー近くミシガン準州第二次フレンチタウンの戦い1月22日): イギリス軍正規兵、民兵インディアン戦士からなる部隊アメリカ軍部隊夜明け前急襲掛けた数時間激し戦闘の後アメリカ軍部隊全体降伏受け入れられた。翌朝負傷してマルデン砦に搬送させるのを待っていた多くアメリカ兵虐殺されたという証言拠りレーズン虐殺呼ばれるようになった。この敗北によりハリソン准将デトロイト奪還するための冬の作戦中止することになった オハイオ州メグズ砦の包囲戦5月1日-9日): イギリス軍正規兵、民兵、およびテクムセ指揮する1,000名を超えるインディアン戦士からなるイギリス軍部隊がモーミー川河口現在のオハイオ州ペリーズバーグ近く)から約12マイル (19 km) の早瀬築いたばかりの砦を奪おうとして失敗した オハイオ州メグズ砦の包囲7月21日-28日): イギリス軍により2回目メグズ砦包囲戦。このときはテクムセ指揮下にフォックス族、メノミニー族、オジブウェ族オタワ族サック族、スー族、ウィニベイゴ族の戦士300名以上を集めたが、失敗した オハイオ州ボール戦い7月30日): イギリス軍忠実なインディアン部隊と、スティーブンソン砦に向かっていたアメリカ軍ジェイムズ・V・ボール少佐指揮下のペンシルベニア志願兵部隊を含む)との間に起きた戦闘スティーブンソン砦からは南に約8マイル (13 km)、メグズ砦からは南東35マイル (56 km) にあるセネカ近くでおきた オハイオ州スティーブンソン砦に対す攻撃8月2日): イギリス軍スティーブンソン砦を占領しようとしたが、失敗した。砦は現在のオハイオ州フレモント近くサンダスキー川沿いにあった オハイオ州プット・イン・ベイの戦い9月10日): エリー湖の湖上戦とも呼ばれる画期的な結果生んだ海戦オリバー・ハザード・ペリー海軍大佐指揮するアメリカ戦隊が、ロバート・ヘリオット・バークレイ海軍中佐指揮するイギリス戦隊破ったアメリカエリー湖支配権確立したローワー・カナダ南西部供給線を遮断されイギリス軍は、デトロイトとアマーストバーグ砦を放棄し、東のナイアガラ半島への撤退強いられた アッパー・カナダのモラビアンタウンの戦い10月5日): 現在のオンタリオ州チャタムに近い、テムズ川沿いの村落モラビアンタウンで、アメリカ軍決定的な勝利を挙げたイギリス軍デトロイトとアマーストバーグ砦からの撤退途中にあったテムズの戦い呼ばれる。この戦闘で、テクムセ戦死しテクムセ構成した連邦忠実だったワイアンドット族酋長ラウンドヘッドも戦死した アッパー・カナダ、マクレイの農園での小競り合い12月15日): モラビアンタウンの南西25マイル (40 km) で、イギリス軍アメリカ軍小部隊に勝利した

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アッパー・カナダのロングウッズでの小競り合い3月4日): デトロイトからのアメリカ軍騎馬隊が、アッパー・カナダデラウェア基地から出撃したイギリス軍部隊止められたが勝利したオンタリオ湖西端デトロイト川沿いのアマーストバーグとバーリントンとの中間起きた アッパーレイクスに対すシンクレア方面作戦7月-8月): デトロイト周辺地域からイギリス軍撤退したことに伴い、アッパーレイクス支配試みたアメリカ軍の作戦イギリス商船3隻を捕獲し放棄されていたイギリス軍セントジョゼフ島砦を破壊し、セントメアリー川沿いにあった交易基地襲撃した事以外、大した成果無かった。ミチリマキノー砦の奪還には失敗し帰り道スクーナー2隻を失ったアッパー・カナダのセントメアリー川襲撃7月23日-26日): スペリオル湖ヒューロン湖を繋ぐセントメアリー川沿いで、アーサー・シンクレア海軍大佐戦隊一部が行った襲撃毛皮交易基地1か所を占領し建物破壊し急流の上手でイギリスのスクーナーパーセビアランスを捕獲した。このスクーナー急流通ろうとして損傷受けていたので、燃やされマキノー島への強襲8月4日): アッパーレイクスに対するアーサー・シンクレア海軍大佐方面作戦中で、マキノー島奪還しようとして失敗した HMSナンシー破壊8月13日): ジョージア湾に注ぐノッタワサガ川河口から2マイル (3 km) で、イギリス商船ナンシー破壊した。アーサー・シンクレア海軍大佐戦隊から、榴弾砲2門を持って上陸した部隊遂行した アメリカスクーナー、タイグレスとスコーピオン捕獲9月3日): ロイヤル・ニューファンドランド・フェンシブルの小さな分遣隊数人水夫が、ドラモンド近くアメリカのスクーナータイグレスとスコーピオン捕獲した大胆な作戦。タイグレスにはカヌー平底船で接近した部隊乗り込んだスコーピオンはその数日後にタイグレスの部隊乗り移って捕獲した アッパー・カナダのマルコームズミルズでの小競り合い11月6日): テムズ・バレー上流で、カナダ民兵隊と、ダンカン・マッカーサー准将率いたアメリカ軍部隊演じた小競り合い決着は付かなかった。マッカーサー当初の目的は、ナイアガラの前線にいるイギリス軍物資供給しているオンタリオ湖奥に近い町を襲撃することだった。マルコームズミルズでの戦闘後は、南に転じてエリー湖北岸開拓地襲撃しデトロイト戻った

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