無血占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:03 UTC 版)
「エミラウ島の無血占領」の記事における「無血占領」の解説
攻略部隊は大きく2つに分けられた。一つは第4海兵連隊のうち第1大隊(英語版)と第2大隊(英語版)は9隻の高速輸送艦に分乗し、残りはドック型揚陸艦「エッピング・フォレスト(英語版)」、「ガンストン・ホール(英語版)」、「リンデンウォルド(英語版)」および攻撃輸送艦「キャラウェイ(英語版)」に分乗した。ドック型揚陸艦のうち一隻はエミラウ島の環礁を乗り越えるための66台のLVTを搭載し、残る2隻は戦車とレーダー装置や対空兵装を載せた戦車揚陸艇を3隻ずつ搭載した。 攻略部隊は、3月20日6時5分に上陸予定地に到着。ドック型揚陸艦に搭載されていたLVTは一斉に海岸めがけて殺到し、高速輸送艦と「キャラウェイ」も水陸両用トラクターをボートに移して同様に海岸を目指す。海兵隊第218飛行中隊(VMF-218)(英語版)のF4Uコルセアは、島内の日本軍の有無を探る捜索と掩護を行った。攻略部隊は無傷で海岸に着岸することができた。第3大隊のボートも難なく着岸し、兵員は膝までの水深の海岸から陸上に上がった。上陸時の唯一の問題は、戦車を搭載した揚陸艇が起動に失敗したことであり、揚陸艇は艦隊曳船の助けを借りてドック型揚陸艦から引っ張り出さなければならなかった。エミラウ島から少し離れたエロムッソー島にも部隊は送られ、駆逐艦の掩護射撃のもとで水陸両用トラクターが陸に引っ張り上げられたが、その際に兵員1名が砲弾の破片で負傷した。ところが、上陸部隊は原住民から思いがけない情報を聞く。原住民の言では、日本軍は2か月ほど前にエミラウ島から去っており、ムッソウ島に移って行ったと上陸部隊に教えたのである。11時には高速輸送艦と「キャラウェイ」から軍需品が陸揚げされ、夕暮れまでに3,727名の兵員と844トンの軍需品がエミラウ島に揚げられた。その後1か月以内に、合計18,000名の兵員と44,000トンにおよぶ軍需品が追加陸揚げされた。 機密情報により、日本軍はムッソウ島に燃料庫と通信施設を有していることを知っていたため、3月23日に駆逐艦の艦砲射撃によって諸施設を破壊した。3月27日には、ムッソウ島の南40マイルの地点で日本軍を乗せた大型のカヌーを発見し、日本軍は小銃と機関銃で反撃してきたが駆逐艦の艦砲がこれらを沈黙させ、カヌーを破壊して日本軍兵員を一掃した。この戦闘は、エミラウ島を含むセント・マティアス諸島海域における唯一の戦闘でもあった。かくして、エミラウ島は1名の負傷者を出しただけで連合軍側の手に帰し、マヌス島を含むアドミラルティ諸島の占領と合わせてラバウルとカビエンに対する封鎖が完成したのである。エミラウ島の確保はまた、ハルゼーが南太平洋軍を指揮して行った最後の作戦でもあった。作戦のあと、ハルゼーは第3艦隊の名称を保持したままレイモンド・スプルーアンス海軍大将が指揮する大艦隊(第5艦隊)をローテーション制で指揮することとなった。ハルゼーが南太平洋を去ったのは6月15日のことであった。 一連の攻撃に際し、日本軍の反応は散漫であった。カビエンに対する艦砲射撃に続いて3月20日にムッソウ島の水上機基地が爆撃を受け、辛うじて残存したラバウル航空隊も少数機で反撃を試みた。日本軍がエミラウ島への攻略作戦に気付いたのは、3月21日以降のことと推定されている。
※この「無血占領」の解説は、「エミラウ島の無血占領」の解説の一部です。
「無血占領」を含む「エミラウ島の無血占領」の記事については、「エミラウ島の無血占領」の概要を参照ください。
- 無血占領のページへのリンク