無血のレコンキスタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/19 06:20 UTC 版)
「プエブロの反乱」の記事における「無血のレコンキスタ」の解説
1690年、ディエゴ・デ・バルガスはニューメキシコ総督に任命され、1692年7月にサンタフェに戻った。デ・バルガスは夜明け前に町を囲んで、スペイン王に忠誠を誓ってキリスト教信仰に戻るのならば、寛大な処置を約束するとして、プエブロ人たちに降伏するよう呼びかけた。プエブロ人のリーダーたちはサンタフェに集い、デ・バルガスと会い、平和に同意した。こうして1692年9月14日、デ・バルガスは失地回復が行われたことを正式に宣言した。 交易の中心としてサンタフェが発展する中、戻ってきた開拓者たちは1706年に古い町のアルバカーキを設立した。町の名前は、ニュースペイン総督のアルバカーキ爵にちなんで命名された。設立に先立ち、アルバカーキはリオ・グランデ川下流に沿って、いくつかの大農場とコミュニティから成っていた。彼らは1706年、サンフェリペ・デ・ネリ教会を建てた。1700年代の徹底した牧場の開発と、いくつかの農耕は、この州に今も華やかに残るヒスパニック文化の基盤を作った。 デ・バルガスのニューメキシコの失地回復は、「国土回復運動」にたとえられてしばしば「無血レコンキスタ」と呼ばれている。しかしデ・バルガスは、平和を維持するための試みとして、数年の間、プエブロ人に対していくつかの軍事行動を仕掛けた。例えば第2次プエブロの反乱は1696年に試みられ、5人の宣教師と21人のスペイン人が死ぬ結果になったが、事実上阻まれた。世紀の終わりまでには、スペインの「レコンキスタ」はほぼ完成した。 プエブロ人のスペインからの独立は、1680年から1692年と短命ではあったが、プエブロの反乱は、プエブロ・インディアンたち、彼らの文化と宗教を根絶やしにしようとする将来のスペインの努力からの自由の物差しを与えた。さらに、スペイン人はそれぞれのプエブロにかなりの払い下の土地を発行し、彼らの権利を保護するための国選弁護人を任命し、スペインの法廷で訴訟事件を争った。
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