最後の作戦
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「アラスカ (大型巡洋艦)」の記事における「最後の作戦」の解説
5月14日、アラスカは約2ヶ月に及ぶ洋上行動から一時離れてウルシーに帰投。10日間の休養と補給の後、第3艦隊第38.4任務群に戦艦アイオワ (USS Iowa, BB-61) 、空母タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV-14) とともに加わった。次の2週間、アラスカは第38任務部隊の一艦として行動し、6月9日にはグアムとともにいまだ日本の勢力圏内であった沖大東島を艦砲射撃し、かの地にあったレーダー基地を破壊した。 任務群は沖縄周辺での行動を終えてレイテ島サンペドロ湾に向かった。6月13日午後、アラスカ以下の任務群はサンペドロ湾に帰投した。レイテ島で一ヶ月間の休養、回復およびメンテナンスが行われ、アラスカは7月13日に新たに結成された第95任務部隊(フランシス・S・ロウ海軍少将)の一部として出航する。任務部隊は16日に沖縄の中城湾に到着し、任務部隊は給油を行い翌日出航、東シナ海へ向かった。台風の影響で沖縄に引き返すこともあったが、7月21日から作戦を開始することとなった。任務は、福州から黄海に至る海域において、全ての日本の船らしい船を葬り去ることであった。この作戦にはアラスカ、グアムを基幹としてアーカンソーや真珠湾の生き残りも加わっていた。 この方面には、敵の2隻の戦艦と数隻の空母、駆逐艦、100以上の体当たりボートと航空機が潜んでいると信じられており、実際にそのような情報が届いていた。当然、敵の抵抗が予想されたものの、アラスカとグアム、護衛艦艇は敵に遭遇することもなく、中国の漁船と遭遇したのみであった。艦隊に攻撃を試みた日本軍機は戦闘哨戒を担当した航空機部隊によって撃退された。中城湾を拠点としてアラスカは東シナ海における三度の掃海作戦の支援に参加したが、結局目ぼしい日本艦艇は観測されなかった。グアム艦長のレランド・P・ラヴット大佐は、「我々は蜂の巣と戦って、パンジー畑で傷つくのを覚悟していた。しかし、東シナ海は我々のものであることが証明された」と語った。 戦争の終結も近づいたものの、依然日本軍の抵抗は続けられた。8月12日夜、アラスカのそばに停泊していた戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) に対し日本軍機が夜間攻撃を行い、ペンシルベニアは艦尾に魚雷1本が命中し大破した。翌日、特攻を回避するため夜間の出撃が行われた。8月15日に日本は降伏し、艦は歓喜に包まれた。アラスカの日誌には「我々は1月に初めて戦闘地域に出発したときに誰もが予想したより、はるかに早く帰ることができたのを知った」と記述された。 アラスカは戦争を通じて損傷らしい損傷は受けなかったが、運動性能は良くなく、サラトガと同程度であるとの報告が艦長より出された。
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最後の作戦
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「2015-2016年ラタキア攻勢」の記事における「最後の作戦」の解説
2月20日から23日にかけて、陸軍は進撃を続け、キンサバの北にある8つの村と丘を占領した。2月26日、政府軍はラタキアとイドリブの県境にあるアイン・アル=バイダを支配し、その翌日にサラフの村とヌスラが支配するトルコとの国境を見下ろすタル・ナワラットの丘を制圧した。 3月2日、軍はカバニとその丘への攻撃を開始した。他の場所では、3つの村と1つの丘を占領したと報じられた。10日後、カバニの丘(丘1154)の戦略上重要な高地は政府軍に奪われた。この間、陸軍はカバニを見下ろすズウェイカット山頂も奪取した。それでも、反政府活動家は3月9日に、反政府勢力がズウェイカットを奪還したと報告した。
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