最後の作品と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「最後の作品と晩年」の解説
チャップリンはキャリアの最後の20年間で、過去の作品の所有権と配給権を確保し、それらを再公開するために音楽を付けて再編集することに精力を傾けた。その最初の仕事として、チャップリンは『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』の3本をまとめて、1959年に『チャップリン・レヴュー』として再公開した。この頃のアメリカでは政治的な雰囲気が変わり始め、世間の注目はチャップリンの政治的問題ではなく、再びチャップリン映画に向けられた。1962年7月にニューヨーク・タイムズは、「いまだ忘れられていない小さな放浪者がアメリカの港に上陸するのを許したところで、この国が危険にさらされるとは思えない」と社説で述べた。1963年11月にはニューヨークのプラザシアターで、『殺人狂時代』『ライムライト』を含むチャップリン映画の回顧上映が1年かけて行われ、アメリカの批評家から高い評価を受けた。1964年9月、チャップリンは7年前から執筆していた『チャップリン自伝(英語版)』を刊行した。この自伝は初期の人生と私生活に焦点を当てており、映画のキャリアに関する情報が不足していると指摘されたが、世界的なベストセラーとなった。 チャップリンは自伝の出版直後、1930年代にポーレット・ゴダードのために書いた脚本に基づくロマンティック・コメディ『伯爵夫人』の製作を始めた。物語は豪華客船を舞台とし、マーロン・ブランドが乗客のアメリカ大使、ソフィア・ローレンが彼の部屋に隠れる密航者を演じた。チャップリンが国際的な大スターを起用したのはこれが初めてで、自身はちょい役で出演するにとどめ、監督に徹した。また、この作品ではチャプリン映画として初めてカラーフィルムとワイドスクリーンを導入した。作品は1967年1月にユニバーサル・ピクチャーズの配給で公開されたが、否定的な批評が多く、興行的にも失敗した。チャップリンは自身最後の映画となったこの作品の否定的反応に深く傷ついた。 1960年代後半、チャップリンは軽微な脳卒中を起こし、そこからチャップリンの健康状態はゆっくりと低下し始めた。それでも創作意欲が衰えることはなく、すぐに新しい映画の脚本『フリーク』に取りかかった。これは翼が生えた少女が主人公のドラマ仕立てのコメディで、娘のヴィクトリアを主演に想定していた。しかし、チャップリンの健康状態の低下は映画化の実現を妨げた。1970年代初頭、チャップリンは『キッド』『サーカス』などの自作を再公開することに専念した。チャップリン映画を配給するためにブラック社が設立され、「ビバ・チャップリン」と題したリバイバル上映が各国で行われたが、これは日本だけの収益で元が取れた。 1970年代、チャップリンはカンヌ国際映画祭特別賞やレジオンドヌール勲章など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになった。1972年に映画芸術科学アカデミーは、チャップリンにアカデミー名誉賞を授与することに決めた。ロビンソンは、これで「アメリカも償いをする気になった」と述べている。最初チャップリンはこれを受けるのをためらったが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心した。授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間のスタンディングオベーションを受け、チャップリンは「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」を理由に名誉賞を受け取った。チャップリンはその2年後に著した『映画のなかのわが人生』の中で、授賞式について「私はその温かな意思表示に感動したが、あの出来事にはなにがしかのアイロニーがあった」と述べている。 チャップリンはまだ新しい映画のための企画を考えており、1974年には「アイデアが次々と頭の中に飛び込んでくるから」引退することはできないと語っていたが、1970年代半ばまでにチャップリンの健康状態はさらに低下した。チャップリンは数回の脳卒中を起こし、やがて歩くこともできなくなった。チャップリンの最後の仕事は、1976年に『巴里の女性』を再公開するためにスコアを付けて再編集する作業だった。1975年にはチャップリンの人生についてのドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』に出演した。同年3月、イギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を与えられた。授与式には車椅子姿で登場し、座ったまま栄誉を受け取った。
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