最後の兆候と大爆発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 15:05 UTC 版)
「デイヴィッド・ジョンストン」の記事における「最後の兆候と大爆発」の解説
地震と火山活動の増大を受けて、USGS で働くジョンストンたち火山学者は、切迫する爆発的噴火を観測するために、バンクーバー支部で準備を進めていた。地質学者のドン・スワンソンのチームは、成長するドームやその周辺に反射板を設置し、レーザー測距計を使って、反射板との距離を測定し、ドームの形状変化を捉えるべく、コールドウォーターIおよびIIと命名された観測所を設置した。ジョンストンの最後の地となるコールドウォーターIIは、山頂の北10キロメートルに位置していた。USGS の地質学者が驚きをもって見つめるなか、山腹の隆起は1日に1.5から2.4メートルの割合で増大していった。 火山の北側に設置された傾斜計は、山の斜面が北西に向けて傾斜していることを示していた。山の南側では、南西に傾斜する傾向が観測されている。地下におけるマグマ圧力の増大を懸念して、科学者は火口で火山性ガスを採取して分析した結果、高濃度の二酸化硫黄を検出した。この発見後、かれらは定期的な噴気活動の確認を開始し、火山の劇的な変化を捉えようと試みたが、何も観測されなかった。落胆はあったものの、彼らは次に、成長する隆起の調査へ矛先を向け、その崩壊が火山周辺の住民活動の脅威となるか調べ始めた。調査の結論は、地すべりや崩壊が発生した場合、トゥートル川(英語版)に大量のラハール、もしくは泥流が流れ下る危険を示していた。 この時点で、最初は頻繁に生じていた水蒸気噴火も断続的になっていた。5月10日から17日にかけて、北斜面の隆起の膨張以外の変化は見受けられなかった。5月16日と17日には、水蒸気噴火がまったく起きなかった。 活動中のセント・ヘレンズ山は、平穏な時期とは根本的に様相を変え、巨大な隆起が生じ複数の火口が開いていた。爆発がおきた週には、山頂の北側に割れ目が生じ、マグマの動きが隆起部からカルデラへと向いたことを示していた。 翌日(5月18日)の現地時間8時32分、マグニチュード 5.1 の地震が山域を揺るがして地すべりを誘発した。これが大噴火の引き金となった。数秒のうちに、地震の振動が山の山頂から北斜面にかけての、2.7 立方キロメートルに及ぶ岩石をぐらつかせ、大規模な地すべりを発生させた。山体がもたらしていた圧力が消失し、セント・ヘレンズ山のカルデラから急激に水蒸気と様々な火山ガスが放出し始める。数秒後、側面噴火が始まり、斜面から音速に近い速度で高速な火砕流が噴出した。その流れは後で合流しラハールとなった。爆風がジョンストンが居たところまで到達するのに、最速で1分はかからなかったと見られる。ジョンストンは無線で USGS の同僚に向けて "Vancouver! Vancouver! This is it!" と通信を送り 、次の瞬間、無線はとぎれた。初期の段階では、ジョンストン生存の可能性について検討がなされた。しかしすぐにジョンストンの位置から北のコールドウォーター山の近くに居て、同じく噴火の犠牲となったアマチュア無線家のゲリー・マーティンによる、コールドウォーターII観測所が噴煙にのみこまれる目撃情報を報告した記録の存在が明らかになった。爆風がジョンストンの観測所を圧潰する様子を、マーティンは厳粛に「紳士諸君、あー、私の南に居たキャンパーと車が覆われてしまった。私のところにも向かって来ている。ここから逃げるのは無理なようだ…」と告げたのち、彼の無線は途絶えた。 ジョンストンやマーティンといった犠牲者をなぎ倒した爆風と火砕流の範囲、速さ、方向は、後日『セント・ヘレンズ山の1980年5月18日の爆発的噴火の経過と特徴』との題で、1984年に全米研究評議会地球物理学委員会から公判された書籍に収録される形で報告された。この論文で、著者らは噴火の最初の数分間の活動経過と特徴を構成するため、噴火時の写真と衛星画像を検討した。論文には図10.3として、セント・ヘレンズ山の東方53キロメートルにあるアダムズ山から撮影された連続写真が収録されている。この6枚の写真には、側面噴火の様子が横側からとらえられ、崩壊と火砕流の範囲と大きさがはっきりと示されており、ジョンストンがいた位置を越えて北へ届いていたことがわかる。同論文の図10.7は、火砕サージの到達範囲を30秒毎に示した平面図で、ジョンストンがいた位置(コールドウォーターII観測所)とマーティンのいた場所が含まれている。 噴火の爆音は数百キロメートルはなれた場所でも聞き取れたが、噴火から生き残った人々の中には、山を逃げ下っている間、地すべりと火砕流の物音は聞こえなかったと証言している者もいる。アメリカ合衆国林野局(英語版) の職員、クラウ・キルパトリックは、「それから音はしなかった。音はなかったんだ。まるでサイレント・ムービーのようで、私達は完全にそのただ中にいたんだ。」と記憶を辿りそう述べている。このように証言が異なる理由は "quiet zone" と呼ばれる、空気の運動と温度に、現地の地形がある程度影響して生じる現象が原因である。 山の状態を表現するのにレポーターが述べた有名な言葉に「導火線に火がついたダイナマイトの詰まった容器のそばに立っているような」という言い回しがあるが、ジョンストンは火山が噴火する兆候に気づいた最初の火山学者の一人であり、すぐに火山性ガスのモニタリング・チームのチーフに任命されている。彼は用心深い分析者ではあったが、市民から死者を出すのを防ぐために、科学者自身がリスクを取って活動する必要があると強い信念を抱いており、その信念に従って、現地での危険な有人観測に着手した。彼を始めとする幾人もの火山学者たちは、噴火の前兆活動が続いていた数ヶ月の間火山のそばから人々を遠ざけ、閉鎖の解除を求める圧力に抗いぬいた。彼らの努力をしても、数十人の犠牲は避けられなかった。しかし、山域が閉鎖されていかなったならば、その死者数は数千に及んでいたであろう。ジョンストンは側面噴火に関する理論に貢献した。かれは、爆発的噴火は上向きではなく、横向きに起こると信じていた。また、ジョンストンは、噴火の前段として隆起が生じると考えていた。このことから、彼は北方向への噴火の可能性が最も高いと気づいていたのだ。
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