レイテ島
レイテ‐とう〔‐タウ〕【レイテ島】
レイテ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 05:15 UTC 版)
レイテ島 | |
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フィリピンの地図、右やや下がレイテ島
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所在地 | ![]() |
所在海域 | 太平洋 |
所属諸島 | ビサヤ諸島 |
座標 | 北緯10度50分0秒 東経124度50分0秒 / 北緯10.83333度 東経124.83333度座標: 北緯10度50分0秒 東経124度50分0秒 / 北緯10.83333度 東経124.83333度 |
面積 | 7,368 km² |
最大都市 | タクロバン |
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レイテ島(レイテとう、Leyte)は、フィリピン中部、ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置する島。人口は約190万人、面積は7,214km2。
地理
南北180km、東西は広いところで65kmと南北に細長い島である。レイテ島は、レイテ湾に面した一帯が農業に適した平地である。一方で中央部は山岳地帯となっており、熱帯性の気候と相まって密林となっている。
東側は、サマール島・レイテ島・ディナガット島で囲まれたレイテ湾がフィリピン海(太平洋)から入り込んでいる。
西にはオルモック湾があり、カモテス海を挟んでセブ島が、カニガオ海峡を挟んでボホール島がある。
北にはカリガラ湾が切れ込み、サマール海にはビリラン海峡を挟んでビリラン島(ビリラン州)がある。レイテ島北海岸のサマール島・ビリラン島・マスバテ島・ルソン島などに囲まれた海域はサマール海である。
産業
おもな産業は林業、稲作、平地でのサトウキビや山地でのココナツなどのプランテーションによる農業、漁業。タクロバンは材木積出港として有名。島の西海岸のオルモック(Ormoc)の街には、オルモック湾に面した地熱発電所がある。
行政区分
州
島の大半を占めるレイテ州と南部4分の1を占める南レイテ州に属する。
主要都市
島内最大の都市は、レイテ湾に面し、レイテ州州都でもある東海岸のタクロバン(Tacloban)。南レイテ州の州都マーシン(Maasin)がある。
歴史
古代
レイテ島周辺はスペイン人来航以前からマレー人系の民族、ビサヤ人が住み、中国や東南アジアなどとの交易を行っていた。
イスラムの到来
14世紀後半、イスラム教を受け入れ、領主(ダトゥ、またはラジャ)を戴く多くの共同体を作っていたが、統一した国家を形成するには至らなかった。
スペイン植民地時代
レイテには16世紀多くのスペイン船団が訪れ、やがてスペインによる侵略・弾圧支配が始まった。レイテ島の南沖にあるリマサワ島は、1521年にフェルディナンド・マゼランによるフィリピン諸島最初のキリスト教ミサが行われた場所という言い伝えがある。1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがサマール島などを巡った後レイテ島に来航し、スペイン人の統治者らはこれらの諸島を母国のフェリペ皇太子(フェリペ2世)をたたえてフェリピナス諸島と名づけ、フィリピンの名の由来となった。
米比戦争
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太平洋戦争の戦地
レイテ湾とその周辺海域は、太平洋戦争中に世界海戦史上最大の激戦となったレイテ沖海戦の舞台として有名である。またダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍部隊は1944年10月20日レイテ湾に上陸、ここからフィリピン奪回の第一歩を記した。(なお23日にダグラス・マッカーサーがセルヒオ・オスメニャとともに上陸。)その後フィリピンにおける決戦・レイテ島の戦いが全島を戦場として起こったが、日本軍は物資補給・兵員補給の輸送船が途中で沈められ、補給を断たれた8万人以上の兵士が戦死や病死・餓死でほぼ全滅するという惨敗を喫した。生き残った兵士はセブ島などへ個々に脱出したが、生還率はわずか3%ともいわれる。また数多くの島民が日本軍とのゲリラ戦に参加したほか、戦闘の巻き添えで一般人も犠牲となった。この凄惨な戦いは大岡昇平のレイテ戦記ほか戦記小説に詳しい。島内には、マッカーサーのフィリピン帰還・上陸を記念したモニュメントが上陸地点のパロ海岸にあるほか、日本軍兵士の慰霊碑が各所にある。
災害

- 1991年11月5日 - レイテ島北部オルモック周辺で、台風25号によって土砂災害が発生。
- 2006年2月16日 - 南レイテ州で大規模な地すべりが発生(2006年レイテ島土砂災害)。詳しくは、南レイテ州を参照。
こうした土砂災害の頻発には大雨のほか、丘陵地帯がほとんどプランテーションとなっており保水力がほとんどないこと、および残っている山林の過剰伐採・違法伐採も原因として疑われている。
- 2013年11月8日 - レイテ島を強い台風30号(アジア名 Haiyan)(中心気圧895ヘクトパスカル、最大瞬間風速90メートル[1])が直撃。レイテ島の中心都市タクロバン市周辺は暴風雨と高潮に見舞われ、住宅や建物が次々と濁流にさらわれ、水死や倒壊した建物による圧死で犠牲者が1万人を超えた[2]。
住民
民族
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言語
英語のほか、北部と東部ではサマール島などでも使われるフィリピンの主要言語の一つ・ワライワライ語(ワライ語)が、西部と南部ではセブ島などで使われるセブアノ語が使用されている。
宗教
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有名な出身者
タクロバンはイメルダ・マルコス元大統領夫人の出身地として有名。
交通
空路
フェリー
レイテ島からは、島々(セブ島、ミンダナオ島等)へのフェリーが縦横に運航され、海上交通網の重要な結節点である。
陸路
レイテ島の北から東にかけて隣接するサマール島とは狭いところで幅2kmほどのサン・ファニーコ海峡で隔てられているが、ここを日本からの融資で建設されたフィリピン最長の橋梁サン・ファニーコ橋が結んでいる。
脚注
- ^ “台風30号 情報第31号”. エキサイト天気 (2013年11月7日). 2013年11月8日閲覧。
- ^ “フィリピン:1万人超が死亡か…猛烈な台風直撃”. 毎日新聞 (2013年11月10日). 2013年11月10日閲覧。
関連項目
外部リンク
レイテ島
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「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の記事における「レイテ島」の解説
詳細は「レイテ島の戦い」を参照 ノールウッド演習後、第11空挺師団は1944年1月まで予備役部隊に留まったが、1月中に列車でキャンプ・マッコールからルイジアナ州のフォークポークに移動した。戦闘任務のための最終準備を4週間にわたり受けた後、4月にカリフォルニア州キャンプ・ストーンマンに移動し、5月25日から6月11日にかけてパプアニューギニアのミルン湾に移動した。6月から9月にかけ、順応のための空挺訓練を、ニューギニア島のジャングル内にあるドボドゥラ飛行場周辺で続けた。この間、グライダー部隊のほとんどがパラシュート資格を取得し、師団は完全にパラシュート部隊となった。11月11日、師団は海軍輸送船団に乗り込み、11月18日にフィリピンのレイテ島に到着した。4日後に第24軍団の指揮下に入り、初の戦闘に従事したが、空挺部隊としてではなく、歩兵部隊としての活動にとどまった。第11空挺師団は、ブラウエン・ラ・パス・ブゴ地域に駐留する第7歩兵師団を支援し、その地域にいる全ての日本軍と交戦し、排除した。その後、第24軍団の後方で補給用ダンプと飛行場を防衛するように命じられた。 スウィング少将は、第187グライダー歩兵連隊に第24軍団の後方施設を警備するように命じ、第188グライダー歩兵連隊に後方の安全確保のため敵軍の排除とパトロールを命じた。11月28日に第511パラシュート歩兵連隊に、師団の作戦地域における全ての日本軍部隊を排除する任務を命じ、第7歩兵師団とともに任務を遂行した。第511パラシュート歩兵連隊は、2個大隊と予備役大隊を擁し、陸路で進軍したが、日本軍の激しい抵抗、地図上に明記されているルートの断絶、大雨(11月だけでも降水量23インチ(60センチ)以上)などの障壁に直面し、進軍速度は遅かった。師団は、食料と弾薬の補給を多数のパイパー カブなどの航空機からの降下に頼っていた。第511パラシュート歩兵連隊の前方に第187グライダー歩兵連隊の偵察小隊を降下させたり、ラバ列車などの輸送手段を失った時はC-47輸送機から砲兵部隊を降下させるなど、前進スピードを向上させるための方法をいくつも試していた。 12月6日、日本軍はレイテ島での作戦を妨害しようと、2回の小規模な空挺攻撃を実施した。日本軍は最初の攻撃で、タクロバンとデュラグにあるアメリカ軍の複数の重要な飛行場を占領しようと試み、少数の空挺部隊を突入させようとしたが、3機の輸送機が撃墜されたり、不時着したり、日本兵とともに地上で破壊され、失敗に終わった。2度目の攻撃は、大規模な空挺攻撃で、戦闘機に護衛された29機から39機の輸送機によって実行された。大きな損失が出たが、日本軍は第11空挺師団司令部が置かれていた、ブラウエン飛行場周辺に多数の空挺部隊を降下させることに成功した。結果的に、5機のL-5 センティネル偵察機と1機のC-47輸送機が破壊されたが、日本軍部隊はスウィング少将が指揮する、砲兵、工兵、支援部隊による臨時戦闘団により排除された。 第511パラシュート歩兵連隊は、第187グライダー歩兵連隊第2大隊によって補強されると、ゆっくりながら着実に進軍を続けた。12月17日、日本軍の戦線を突破して、レイテ島の西海岸線に到達し、第32歩兵師団と合流した。この間、狙撃兵のエルマー・E・フライヤー一等兵が日本軍の反撃を退けるために27人の日本兵を殺害した。しかし致命傷を負い、戦死し、名誉勲章を贈られている。連隊は、一時的に防御陣地を設置することを命じられたが、12月25日に第187グライダー歩兵連隊第1大隊、第188グライダー歩兵連隊第2大隊が支援のために到着するまでの間、島内に深く潜伏していた日本兵により、多数の死傷者を出した。第511パラシュート歩兵連隊は、1945年1月15日にレイテ島のベースキャンプで再編された。
※この「レイテ島」の解説は、「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の解説の一部です。
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