レイテ島
レイテ‐とう〔‐タウ〕【レイテ島】
レイテ島
レイテ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:10 UTC 版)
「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の記事における「レイテ島」の解説
詳細は「レイテ島の戦い」を参照 ノールウッド演習後、第11空挺師団は1944年1月まで予備役部隊に留まったが、1月中に列車でキャンプ・マッコールからルイジアナ州のフォークポークに移動した。戦闘任務のための最終準備を4週間にわたり受けた後、4月にカリフォルニア州キャンプ・ストーンマンに移動し、5月25日から6月11日にかけてパプアニューギニアのミルン湾に移動した。6月から9月にかけ、順応のための空挺訓練を、ニューギニア島のジャングル内にあるドボドゥラ飛行場周辺で続けた。この間、グライダー部隊のほとんどがパラシュート資格を取得し、師団は完全にパラシュート部隊となった。11月11日、師団は海軍輸送船団に乗り込み、11月18日にフィリピンのレイテ島に到着した。4日後に第24軍団の指揮下に入り、初の戦闘に従事したが、空挺部隊としてではなく、歩兵部隊としての活動にとどまった。第11空挺師団は、ブラウエン・ラ・パス・ブゴ地域に駐留する第7歩兵師団を支援し、その地域にいる全ての日本軍と交戦し、排除した。その後、第24軍団の後方で補給用ダンプと飛行場を防衛するように命じられた。 スウィング少将は、第187グライダー歩兵連隊に第24軍団の後方施設を警備するように命じ、第188グライダー歩兵連隊に後方の安全確保のため敵軍の排除とパトロールを命じた。11月28日に第511パラシュート歩兵連隊に、師団の作戦地域における全ての日本軍部隊を排除する任務を命じ、第7歩兵師団とともに任務を遂行した。第511パラシュート歩兵連隊は、2個大隊と予備役大隊を擁し、陸路で進軍したが、日本軍の激しい抵抗、地図上に明記されているルートの断絶、大雨(11月だけでも降水量23インチ(60センチ)以上)などの障壁に直面し、進軍速度は遅かった。師団は、食料と弾薬の補給を多数のパイパー カブなどの航空機からの降下に頼っていた。第511パラシュート歩兵連隊の前方に第187グライダー歩兵連隊の偵察小隊を降下させたり、ラバ列車などの輸送手段を失った時はC-47輸送機から砲兵部隊を降下させるなど、前進スピードを向上させるための方法をいくつも試していた。 12月6日、日本軍はレイテ島での作戦を妨害しようと、2回の小規模な空挺攻撃を実施した。日本軍は最初の攻撃で、タクロバンとデュラグにあるアメリカ軍の複数の重要な飛行場を占領しようと試み、少数の空挺部隊を突入させようとしたが、3機の輸送機が撃墜されたり、不時着したり、日本兵とともに地上で破壊され、失敗に終わった。2度目の攻撃は、大規模な空挺攻撃で、戦闘機に護衛された29機から39機の輸送機によって実行された。大きな損失が出たが、日本軍は第11空挺師団司令部が置かれていた、ブラウエン飛行場周辺に多数の空挺部隊を降下させることに成功した。結果的に、5機のL-5 センティネル偵察機と1機のC-47輸送機が破壊されたが、日本軍部隊はスウィング少将が指揮する、砲兵、工兵、支援部隊による臨時戦闘団により排除された。 第511パラシュート歩兵連隊は、第187グライダー歩兵連隊第2大隊によって補強されると、ゆっくりながら着実に進軍を続けた。12月17日、日本軍の戦線を突破して、レイテ島の西海岸線に到達し、第32歩兵師団と合流した。この間、狙撃兵のエルマー・E・フライヤー一等兵が日本軍の反撃を退けるために27人の日本兵を殺害した。しかし致命傷を負い、戦死し、名誉勲章を贈られている。連隊は、一時的に防御陣地を設置することを命じられたが、12月25日に第187グライダー歩兵連隊第1大隊、第188グライダー歩兵連隊第2大隊が支援のために到着するまでの間、島内に深く潜伏していた日本兵により、多数の死傷者を出した。第511パラシュート歩兵連隊は、1945年1月15日にレイテ島のベースキャンプで再編された。
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