アバカとは? わかりやすく解説

アバカ【abaca】

読み方:あばか

マニラ麻」に同じ。

「アバカ」に似た言葉

アバカ

名前 Abāghā

アバカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/14 16:11 UTC 版)

アバカ・ハン
آباقا خان
イルハン朝第2代イル・カン
馬上のアバカ、その息子アルグンおよび彼に抱き上げられている孫の幼児ガザン
在位 1265年6月15日 - 1282年4月1日

出生 1234年2月27日
死去 1282年4月1日
子女 アルグン
ガイハトゥ 他
王朝 イルハン朝
父親 フレグ
母親 イェスンジン・ハトゥン
宗教 キリスト教ネストリウス派
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アバカAbaqa/阿八哈、اباقا خان Ābāqā khān、1234年2月27日 - 1282年4月1日)は、イルハン朝の第2代イル・カン(1265年 - 1282年)。父は初代イル・カンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。

生涯

即位以前

1253年に父フレグが西方遠征軍司令に任じられると、アバカは弟ヨシムトらとともにこの西方遠征に従軍した。1263年暮れにジョチ・ウルスベルケとの不和から戦争になり、ノガイカフカス方面から侵攻してきたが、フレグ西征軍はからくもこれを撃退。アバカは一旦この後詰めとしてアーザルバーイジャーン地方に派遣され再度侵攻して来たノガイの諸軍を撃退した。その前後にフレグは西征軍が実効支配していた諸地方を諸子に統括するよう命じ、アバカはアムダリヤ川河畔に至るにイラクホラーサーン、マーザーンダラーンの諸国を委ねられた。

ジョチ・ウルス及びバラクとの戦い

1265年2月に父フレグが没した時、彼はこのためホラーサーン地方にいたが、ただちにヨシムトが管轄していたタブリーズに上り、フレグの葬儀を済ませると、同年4月にクリルタイを開催し、6月15日に西征軍の王族・諸将に推戴されるかたちでフレグの王位と西征軍全軍を継承し即位した。イラン全土の諸地域をヨシムトやトブシンなどの兄弟たちに委ね、アーザルバーイジャーンやファールスケルマーンなどの諸地域は引き続きクルト朝アルトゥク朝などのアタベク政権、カラヒタイ朝などの諸勢力の安堵を約束し、財務官庁をワズィールのシャムスッディーン・ジュワイニーに、さらにバグダードの経営についてはワズィールの弟で、イラク地方へ派遣されたスンジャク・ノヤンの補佐官となった歴史家アターマリク・ジュワイニーに任せるなどして、諸地方の統治の整備をまず取掛かった。

翌7月初旬にはノガイの再三に渡る侵攻に対しヨシムトの派遣を行い、これを撃退に成功。今度はベルケ自身が親征するところとなりクラ川渡河のためにグルジアティフリス近郊まで大軍を率いて迫ったが、この地でベルケが急死し、ジョチ・ウルス軍は撤退。北方の脅威は一端は納まった。

しかし1269年、東方のチャガタイ・ウルスの当主位をムバーラク・シャーから奪ったバラクが、オゴデイ・ウルスカイドゥやジョチ・ウルスのモンケ・テムルと協定を結び、そのままアムダリヤ川を渡って親征し、ヘラート近郊まで攻め入った。アバカは自ら諸軍を率いて、1270年7月21日にヘラート南部のカラ・スゥ平原の戦いでこれを迎撃・撃破し、大勝をおさめた。この戦いに前後してカイドゥと協定を結んで休戦している。

クビライ・カアンからの承認

このカラ・スゥ平原の戦いが終わりアーザルバーイジャーン地方へ帰還した同年11月6日に、マラーゲ南部のチャガトゥ地域での宿営中にクビライからフレグの位を継ぎイラン地域の支配権を委ねてハンとなるようにとの旨を伝える使者が訪れ、勅令(ヤルリク)と王冠などがもたらされた。こうして同年11月26日、モンゴル皇帝クビライの承認の許に改めてイルハン朝のハンとして同地で第二の即位を行った。同じ時期にジョチ・ウルスのモンケ・テムルからもバラクとの勝利を祝してハヤブサなどの贈物を携えた使者を接見しており、ジョチ・ウルスとの友好を一先ず回復させることが出来た。こうしてクビライおよびモンケ・テムルとの友好を保ちつつも、カイドゥとも和平を結び東北国境の安定にも一応の成功をおさめた。

しかし、この年の暮から翌年にかけて弟ヨシムト、トブシン・オグルに加え、生母イェスンジン・ハトゥンが没している。母のオルドはこの後自らの第4位の妃で、ケルマーンカラヒタイ朝の第3代君主スルターン・クトブッディーン・ムハンマドの娘パードシャー・ハトゥンに委ねている[1]

1273年の夏に、アバカはチャガタイ家やオゴデイ家から侵攻を危惧してブハラの住民をホラーサーン地方へ移住させるよう命じたが、ブハラに駐留していた部隊がこれを違えて掠奪と殺戮を行う事件が起きた。アバカはこれを指揮した部隊長を処罰したが、カイドゥ陣営へ逃亡したマスウード・ベクのマドラサなども軒並み掠奪に晒されるなどブハラの市街地とその周辺は破壊が凄まじく、復興に至るまでこの地域は7年ものあいだ無人状態に陥ったと伝えられる。1273年7月6日にはイラン・ホラーサーン総督として辣腕を振るったアルグン・アカが、翌1274年6月24日には大学者ナスィールッディーン・トゥースィーが歿した。

マムル−ク朝のバイバルス・カラーウーンとの戦い

1275年頃からはエジプトマムルーク朝バイバルスらにシリア境域を何度か侵攻を受けはじめるようになった。1277年にバイバルスが死去して継承争いが始まるといったんは収束したが、内紛が鎮まってカラーウーンが登場すると、彼による侵攻を受けるようになる。1281年にはカラーウーンとシリア領有をめぐって戦ったが敗れた(第二次ホムスの戦い)。

晩年

1282年4月1日モースル近郊で没し、フレグの墓所であるウルーミーエ湖東岸のシャーフーの大禁地に埋葬された。死因はアルコール中毒だといわれる。もともと酒豪だったが、前年の敗戦でさらに酒の量が増したのではないかといわれている。

父と婚約の予定であった東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスの皇女・マリアと結婚した。また、自身もネストリウス派キリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったため、ビザンツ帝国と結んでマムルーク朝などのイスラム教勢力と対立した。また、イングランド国王エドワード1世とも交渉を持った。

宗室

『集史』「アバカ・ハン紀」によると、アバカの息子はアルグンガイハトゥの2人で、娘は7人がいたと伝えている。

父母

后妃

正妃(ハトゥン)

  • オルジェイ・ハトゥン[3] - フレグ妃。引き続きアバカが娶りオルドを引継ぐ。
  • ドルジ・ハトゥン[4] - 大ハトゥン。
    • ノクダン・ハトゥン[5] - 次男ガイハトゥの母。スルドス部族出身。ドルジ・ハトゥンの没後にその後任としてオルドを引継ぐ。
    • イルトゥズミシュ・ハトゥン[6] - ノクダン・ハトゥンの没後にその後任としてオルドを受継ぐ。
  • パードシャー・ハトゥン[7] - アバカの生母イェスンジン・ハトゥンのオルドの後任となる。後にガイハトゥの妃となる。
  • ブルガン・ハトゥン[8] - 三女マリカの母。大ブルガン・ハトゥンとも。アバカに最も寵愛されたという。後にアルグンの妃となる。
  • トクタイ・ハトゥン[11] - フレグの側室。フレグの大ハトゥンであったドクズ・ハトゥンの地位を継ぐ。

側室(クマ)

  • カイミシュ・エゲチ[12] - 長男アルグンの母
  • キョクテイ[13] - 四女トガンチュクの母
  • ブルガチン・エゲチ
  • ボウルジン・エゲチ[14] - 五女イル=クトルグ、六女オルジェイタイの母
  • シーリーン・エゲチ[15]
  • アルタイ・エゲチ
  • トデイ(トダイ)・ハトゥン[16] - 長女ユル=クトルグ、ノカイ(不詳)の母。コンギラト部族出身。後にテグデルとアルグンの妃となる。

※その他氏名不明の側室多数

子女

男子

女子

  • 長女 ユル=クトルグ[17] - 母トダイ・ハトゥン。アルグン幕下の有力部将でバイドゥ・ハン選出にも列席することになるイルチダイ・クシュチに降嫁。
  • 次女 タガイ(トガイ)[18] - アバカ、アルグン、ガイハトゥに代々仕えたチャガン・タタル部族のドラダイ・イデチに降嫁。
  • 三女 マリカ[19] - 母ブルガン・ハトゥン。母方の従兄弟トガン・ブカ[20]に降嫁。
  • 四女 トガンチェク[21] - 母キョクテイ。アミール・ノウルーズ[22]に降嫁。
  • 五女 イル=クトルグ[23] - 母ボウルジン・エゲチ。フーシン部族のアラブタイ・キュレゲンに降嫁。
  • 六女 オルジェイタイ[24] - 母ボウルジン・エゲチ
  • 七女 ノチン[25] - 母ミリタイ・ハトゥン。
  • 不詳 ノカイ - トダイ・ハトゥンの娘でユル=クトルグの同母姉妹。

脚注

  1. ^ パードシャーは後にガイハトゥの妃となり、1292年、ガイハトゥの命で後継問題でもめていたケルマーンに帰国。第5代当主クトルグ・テルケンを追放した弟のソユルガトミシュを捕らえて処刑し、カラヒタイ朝の第7代当主となった。
  2. ^ ييسونجين خاتون Yīīsūnjīn Khātūn:1266~67年の冬にモンゴル本土にあったフレグの後衛のオルド(アウルク)が妃や王族たちとともにイランに入った時、フレグの正妃クトイ・ハトゥンとともにモンゴル本国からイランに移住したという。『集史』アバカ・ハン紀によると、ヒジュラ暦670年ジュマーダー第2月(1272年1月上旬~2月上旬)に死去し、彼女のオルドはパードシャー・ハトゥンに委ねられたという。
  3. ^ اولجاى خاتون Ūljāy Khātūn:オイラト部族首長家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・カンの第二皇女チチェゲンとの娘。
  4. ^ دورجى خاتون Dūrjī Khātūn:
  5. ^ نوقدان خاتون Nūqān Khātūn:フレグ妃クトイ・ハトゥンとともにモンゴル本国からイランに移住したという。 トトカリウト・タタル部族のジョチの娘。チンギス・ハンの第三皇后イェスルン、第五皇后イェスイ姉妹らの姪にあたる。アバカの姉妹ボルガン・アカとジャマイの降嫁を受けたジュルマ・キュレゲンの姉妹。
  6. ^ ايلتوزميش خاتون Īltūzmīsh Khātūn
  7. ^ پادشاه خاتون Īltūzmīsh Khātūn:ケルマーンカラヒタイ朝の君主クトゥブッディーン・ムハンマドの娘。
  8. ^ بلغان خاتون Bulghān Khātūn:バヤウト部族の有力部将ノカイ・ヤルグチの姪。
  9. ^ مرتی خاتون Mirtay Khātūn:コンギラト部族出身。チンギスの娘の息子とされるコンギラト部族のムーサー・キュレゲン(タガ・テムルないしトガン・テムルと称する)とフレグ妃クトイ・ハトゥンの姉妹。
  10. ^ دسپنه خاتون Dispina Khātūn:「デスピナ」とは『皇女』の意。『集史』では「トレビゾンド王の娘」と呼ばれる。
  11. ^ توقتی خاتون Tūqtay Khātūn
  12. ^ قايميش ايكاچی Qāymīsh Īkāchī
  13. ^ كوكتی Kūktay
  14. ^ بولچين ايكاچی Buwulchīn Īkāchī
  15. ^ شيرين ايكاچی Qāymīsh Īkāchī:後にプーラード・チンサンのハトゥンとなる。
  16. ^ تودای خاتون Tūdāy Khātūn
  17. ^ يولقتلغ Yūl-Qutlugh
  18. ^ تغای Taghāy/Tughāy
  19. ^ ملكه Malik
  20. ^ 母ブルガンの伯父ノカイ・ヤルグチの息子。
  21. ^ طغانچاق Ṭughānchūq
  22. ^ アルグンの筆頭部将で、オイラト部族出身のイラン総督アルグン・アカの息子
  23. ^ ايلقتلغ Īl-Qutlugh
  24. ^ اولجيتای Ūljaytāy
  25. ^ نوچين Nūchīn:降嫁情報など詳しい来歴は不明。

参考文献

  • C.M.ドーソン著『モンゴル帝国史 5』(佐口透 訳注)東洋文庫298、平凡社、1976年。
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説 イル汗国の中核部族東京大学出版会、1995年。

関連項目

先代
フレグ
イルハン朝イル・カン
第2代
1265年 - 1282年
次代
テグデル

外部リンク


アバカ (1265–1282)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「アバカ (1265–1282)」の解説

フレグ1265年崩御した後はアバカ (1234年1282年) が跡を継ぎ西欧との協力追求はさらに続行された。アバカは継承のため本来仏教徒であったが、東方正教会教徒ビザンチン帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスの庶皇女マリア・パレオロギナ結婚した。アバカは1267年1268年通して教皇クレメンス4世との外交続け使節クレメンス4世アラゴン王ハイメ1世遣わしたクレメンス4世への1268年メッセージでは、アバカはキリスト教徒援助するために兵を出すと約束した。これが1269年行われたアッコへのハイメ1世遠征失敗繋がったかどうか不明である。ハイメ1世小規模な十字軍始めようとしたが、彼ら地中海横断試みたところ、彼の艦隊を嵐が不意に襲い大部分の船は引き返さざるを得なかった。ハイメ1世十字軍最終的に彼の2人庶子フェルナンド・サンチェス・デ・カストロとペドロ・フェルナンデス・デ・イハルによって行われ、彼らは1269年12月アッコ到達した。アバカは、彼の初期援助約束にも関わらずトルキスタン方面からのジョチ・ウルスホラーサーンへの侵入というもう一つ脅威 (ベルケ・フレグ戦争英語版) ) に直面していたため、聖地奪還のためにはわずかな力を割くことのみに追われ、ほとんど何も出来なかったが、1269年10月に入るとシリア国境沿って侵略脅威振りかざし始めた遠からずして彼は10月シリアハラムアパメアまで襲撃したが、バイバルスの軍が進撃してくるとすぐに退いた

※この「アバカ (1265–1282)」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
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