アバカの治世とは? わかりやすく解説

アバカの治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:04 UTC 版)

シレムン (スニト部)」の記事における「アバカの治世」の解説

1265年フレグ亡くなりアバカがその地位を継ぐと、シレムングルジア方面統治委ねられた。1268年頃、チャガタイ家のテクデル(ジョチ家クリらと同様、フレグ遠征軍に家を代表して従軍していた)がフレグ家を離脱してチャガタイ・ウルス当主バラクの下に逃れようとする事件起こった。この時、テクデルはカスピ海西岸北上して中央アジアに出るルートをとったため、グルジア方面駐屯していたシレムンがこれを追跡することになった両軍はある丘の上遭遇したがテクデルは戦わずして逃走し、ダルバンドに向かった。ところが道は既にシレムンらによって封鎖されており、テクデルはやむなくグルジア方面進んだものの道に迷ってしまった。シレムンはテクデル軍を発見するとその兵士大部分殺し、テクデルら一部捕虜としてアバカの下に連行させた。 この後、「タラス会盟」でジョチ・ウルス及びオゴデイ・ウルス攻守同盟結んだバラクフレグ・ウルス侵攻すると、シレムンバラク撃退のためアバカ率い軍勢加わったアバカカラ・スゥ平原の戦いバラク軍に大勝しモンゴル帝国の中では新興フレグ・ウルスはここに至ってその存在確立することに成功した。なお、『グルジア年代記』によると、シレムンバラクとの戦いの後グルジア軍とともにギーラーン征討行ったという。 『集史』「ベスト部族志」にはシレムンの後、イラン・アゼルバイジャン方面タンマチバイジュ息子アダク継承した記されているが、アダクに関する記述少なく詳しい経緯不明である。ただし、前後の状況からシレムンの死とアダク継承1270年代中頃のことではないか推測されている。

※この「アバカの治世」の解説は、「シレムン (スニト部)」の解説の一部です。
「アバカの治世」を含む「シレムン (スニト部)」の記事については、「シレムン (スニト部)」の概要を参照ください。

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