クビライ・カアンからの承認とは? わかりやすく解説

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クビライ・カアンからの承認

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 11:19 UTC 版)

アバカ」の記事における「クビライ・カアンからの承認」の解説

このカラ・スゥ平原の戦い終わりアーザルバーイジャーン地方帰還した同年11月6日に、マラーゲ南部のチャガトゥ地域での宿営中にクビライからフレグの位を継ぎイラン地域の支配委ねてハンとなるようにとの旨を伝え使者訪れ勅令(ヤルリク)と王冠などがもたらされた。こうして同年11月26日モンゴル皇帝クビライ承認の許に改めイルハン朝ハンとして同地第二即位行った。同じ時期ジョチ・ウルスモンケ・テムルからもバラクとの勝利を祝してハヤブサなどの贈物携えた使者接見しており、ジョチ・ウルスとの友好一先ず回復させることが出来た。こうしてクビライおよびモンケ・テムルとの友好保ちつつも、カイドゥとも和平を結び東北国境安定にも一応の成功おさめた。 しかし、この年の暮から翌年にかけて弟ヨシムト、トブシン・オグルに加え生母イェスンジン・ハトゥンが没している。母のオルドこの後自らの第4位の妃で、ケルマーンのカラヒタイ朝の第3君主スルターン・クトブッディーン・ムハンマドの娘パードシャー・ハトゥンに委ねている。 1273年の夏に、アバカチャガタイ家オゴデイ家から侵攻危惧してブハラ住民ホラーサーン地方移住させるよう命じたが、ブハラ駐留していた部隊がこれを違えて掠奪と殺戮を行う事件起きたアバカはこれを指揮した部隊長処罰したが、カイドゥ陣営逃亡したマスウード・ベクマドラサなども軒並み掠奪晒されるなどブハラ市街地その周辺破壊が凄まじく、復興に至るまでこの地域7年ものあい無人状態に陥った伝えられる1273年7月6日にはイラン・ホラーサーン総督として辣腕振るったアルグン・アカが、翌1274年6月24日には大学者ナスィールッディーン・トゥースィーが歿した。

※この「クビライ・カアンからの承認」の解説は、「アバカ」の解説の一部です。
「クビライ・カアンからの承認」を含む「アバカ」の記事については、「アバカ」の概要を参照ください。

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