クビライ以後のビチクチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 00:19 UTC 版)
1260年にモンケが遠征先で急死すると、弟のクビライとアリク・ブケとの間で帝位継承戦争が勃発した。クビライはこの内戦に勝利したものの全モンゴル王公の支持を得るには至らず、東方に限定されたクビライの勢力圏を大元ウルス(元朝)と呼称する。また、帝位継承戦争に際して中央アジアではアルグがチャガタイ・ウルスを復興させ、イランではフレグが自立してフレグ・ウルスを建国した。結果としてモンケ時代の行尚書省は大元ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルスにそれぞれ乗っ取られる形となり、行尚書省に属していた官僚も各ウルスに吸収されることになった。 東方の大元ウルスと西方のフレグ・ウルスはそれぞれ伝統的な中国・イスラム式の統治体制の整備を進め、元行尚書省の書記官僚たちは新たな統治体制の確立に貢献した。しかし、統治体制の整備が進む中でかつてのチンカイ、ブルガイのような多分野に通じるビチクチは姿を消していき、「丞相/ワジール」と称されるようなビチクチは見られなくなっていった。
※この「クビライ以後のビチクチ」の解説は、「ビチクチ」の解説の一部です。
「クビライ以後のビチクチ」を含む「ビチクチ」の記事については、「ビチクチ」の概要を参照ください。
- クビライ以後のビチクチのページへのリンク