クビライの対応
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「クビライの対応」の解説
1287年(至元24年)2月に遼東宣慰使のタチュからナヤンが反乱準備を始めたとの報告を聞いたクビライは先述したようにまずチェリク・テムルにナヤンの軍備増強を阻むよう命じ、次いで現地に駐屯する庶子のアヤチにタチュと協カして1万の軍勢を率いて先行するよう命じた。また、江南に駐屯する羅壁には黄海を経て遼河から反乱鎮圧軍に軍糧を補給するよう手配している。 同年4月、遂にナヤンが軍を起こすと、5月クビライは北京宣慰使にナヤンに従う者の移動・乗馬・武装を禁じるよう命じ、自軍の動静を悟られないようにした。マルコ・ポーロもこのようなクビライによる命令について言及しており、「かねてカアンは令を下して前途のあらゆる通路を占拠せしめ、だれ一人としてそこを無断で往来できないようにせしめていたので、敵(ナヤン軍)は全くこれに気づかなかった」と記している。また、近侍のアシャ・ブカをベルグテイ王家の下に派遣し、アシャ・ブカはナヤンが既に投降しようとしているとの虚報を以てベルグテイ王家の戦線離脱を成功させている。 『集史』「クビライ・カアン紀」によるとこの頃のクビライは老齢のためリューマチに苦しんでいたが、直属軍を招集して自ら親征することを決定した。クビライは反乱鎮圧のための軍の招集を始めたが、この時の様子について『東方見聞録』は次のように記述している。 彼(クビライ)は作戦の漏れることを慮って、即刻ナヤンとカイドゥの領国に通ずる全街道に守備隊を配置して封鎖する一方、カンバルック市を去る十日行程以内の地域に令を下し、全員を緊急に召集せしめた。このいっさいの準備はわずか二十二日間で完了し、しかも閣僚以外にはだれも気づかぬほどの秘密裏に成し遂げられた。かくして騎兵三十六万・歩兵十万余りの軍勢が集結したが、これは京師付近の軍隊のみを限って召集したために、この程度の少数で終わったまでである。これ以外にもなおカアンには十二軍団があって軍容はなはだ盛んであるが、それらはいずれも各方面で諸国平定に従事するため京師を離れて出軍しており、所定の期日にはとうてい召集しえられなかったからである。したがって、もしカアンがこれら全軍を召集したならば、彼はきっと思う存分の騎兵を手元に持ったことであろうし、その総数たるやそれこそ信じえられないような前代未聞の大軍となったはずである。カアンが召集したこの三十六万騎は単に彼に仕えるタカ使いと側近の軍士だけから成っていた。それというのも、もしカアンがカタイ国に常駐して守備に任じている諸部隊を召集しようものなら、三十〜四十日は十分にかかるはずだし、したがって動員の模様も敵側に漏れてしまい、それこそカイドゥとナヤンは勢力を合流して堅固有利な陣地にたてこもってしまうだろう。これは無論カアンの望むところではない。彼の作戦はできるかぎり迅速に軍事行動を起こしてナヤンを急襲し、カイドゥと合流する以前にこれを撃破するにあったからである。 — マルコ・ポーロ『東方見聞録』、訳文は愛宕1970,179-180頁より引用 クビライの意図は、マルコ・ポーロが語るように直属の軍団のみを以て、短期間に叛乱を鎮圧することにあったと見られる。この記述を裏付けるように、この時の遠征軍では華北(マルコ・ポーロの言うカタイ国)各地に駐屯する諸軍ではなく、クビライ直属の侍衛親軍が主力となっていた。ただし、先述したように侍衛親軍以外でこの戦いに参戦した軍勢の多くは反乱勃発以前から北方に駐屯していたのであり、その他の軍団が「諸国平定に従事するため京師を離れて出軍し」ていたため招集できなかったのは事実の一側面しか伝えていないと考えられている。なお、この時マングト部のボロカン(建国の功臣クイルダルの子孫)が「かつてチンギス・カンは東方の地の20分の9を東道諸王に与え、同様に20分の11をジャライル部・コンギラト部・イキレス部・マングト部・ウルウト部らの「五投下」に与えた。今五投下の兵を徴発すれば、それで東道諸王に対抗するに十分でしょう」と進言したとの逸話が残されているが、クビライは結局直属軍の招集を行っている。
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