ジハーン・テムルとは? わかりやすく解説

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ジハーン・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/04 08:21 UTC 版)

ジハーン・テムル
イルハン朝の対立イル・ハン
在位 1338年 - 1340年

死去 不明
王朝 イルハン朝
父親 アラーフランク(ガイハトゥの子)
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ジハーン・テムルペルシア語:جهان تیمور Jahān Tīmūr、生没年不詳)は、イルハン朝の君主(ハン、在位:1338年 - 1340年)。イルハン朝の第5代君主ガイハトゥの孫。父はアラーフランク。シャー・ジハーン・ティムール、イッズ・ウッ・ディーンとも表記される[1]

生涯

1338年、イールカーニー派[注釈 1]タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ(大ハサン)はムハンマド・ハンが戦死したため、シャー・ジハーン・ティムール(ジハーン・テムル)をイールカーニー派のハンに即位させることを決め、ワズィールの職務をシャムスッディーン・ザカリーヤに与え、イラーク・アラビーの首都(バグダード)に赴いた。

その間、チョバン派のシャイフ・ハサン(小ハサン)はチョバン派の女性ハン・サティ・ベクを廃し、スライマーンをチョバン派のハンに即位させるとともにサティ・ベクを娶らせた[3]

1340年、大ハサンはバグダードからシャー・ジハーン・ティムール・ハンを奉じてジャガトゥ川まで進軍して、スライマーン・ハンを攻撃したが、イールカーニー派が敗北。バグダードに帰還した後、シャー・ジハーン・ティムール・ハンは廃され、大ハサンが自らハンに即位してジャライル朝が建国された[4]

脚注

注釈

  1. ^ 大ハサンの曾祖父はフレグに仕えたジャライル部の将軍イルゲ(イールカー)・ノヤンだったため、イルカン(イールカーニー)派と呼ばれた。[2]

出典

  1. ^ ドーソン 1979, p. 373-374.
  2. ^ ドーソン 1979, p. 370.
  3. ^ ドーソン 1979, p. 374.
  4. ^ ドーソン 1979, p. 375.

参考資料

先代
ムハンマド
(大ハサンによって擁立)
イルハン朝のイル・ハン
対立
1338年 - 1340年
次代



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