混乱期・ムハンマド擁立
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「タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ」の記事における「混乱期・ムハンマド擁立」の解説
こうして、ハサンはイルハン朝ではルーム地方を支配する有力者となったが、1335年にアブー・サイードが嗣子が無いまま死去したため、すぐにアルパ・ケウンが推戴されたものの、彼はオルジェイトゥ時代に亡命して来たアリクブケ家の王族出身だったためその選出に反発する将軍たちも多く、各地で有力者がイルハン朝の傍系一族を擁して蜂起し、王朝は混乱に陥った。ハサンもアブー・サイード没後に「ウルスのアミール」職に復帰したが、アルパ・ケウンがアリー・パードシャーに殺害されると、アルグンの祖父・フレグ系の傍流一族であるムハンマドを擁して挙兵した。ハサンはバグダードのムーサーを擁するアリー・パードシャーの軍勢と会戦し一旦敗退したが、勝利に喜んだアリー・パードシャーが感謝の沐浴中に軍勢を襲ってこれを殺害、大勝した。また、チョバンの孫であるシャイフ・ハサン(小ハサン)と対立・抗争を繰り返したが、これには敗れてバグダードに逃れ、この地方に1340年までに政権を確立させた。これがジャライル朝の起源である。 その後もフレグ系の傍流一族であるジハーン・テムルなどを擁立して自らが君主と称することは無かったが、やがてこれを廃して自らが君主となった。しかしイルハン朝の旧領ではサルバダール朝、そして小ハサンのチョバン朝などが乱立した群雄割拠の状態であり、特にチョバン朝の攻勢に押される一方だったが、1343年に小ハサンが暗殺されたことに助けられて窮地を脱した。しかし王朝の基礎を固めるまでには至らず現状を維持するのがやっとであり、ジャライル朝が全盛期を迎えるのは1356年の死後に後を継いだ息子のシャイフ・ウヴァイスの時代であった。
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