ノガイ
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ノガイ(Noqay, Noγai, ? - 1299年)は、ジョチ・ウルスの有力者。チンギス・カンの長男ジョチの血を引く王族で、ジョチの七男ボアルの長男タタルの子、すなわちジョチの曾孫である。『集史』などのペルシア語資料では نوقاى Nūqāy と表記されている。
- ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 4』(佐口透 訳注,東洋文庫 235)、p369
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 4』(佐口透 訳注,東洋文庫 235)、p371-372
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 6』(佐口透 訳注,東洋文庫 365)、p396
- ^ a b c d 加藤一郎 1985, p. 22.
- ^ 赤坂恒明 2005, p. 176.
- ^ 赤坂恒明 2005, p. 164.
- ^ (赤坂恒明 2005, p. 176-177)および、北川誠一「ジョチ・ウルスの研究 2 」p.6 『集史』などでは、この4人の王族たちによって「トデ・モンケは狂人( ديوانه dīvāna)であるという理由で帝王位から廃された(Tūdā Mūnkkā rā bi-`illat ān-ki dīvāna ast az pādshāhī ma`zūl kardand)」と書かれている。トデ・モンケは普段からスーフィズムの修行に傾倒していたため、チンギス・カンの祖法をないがしろにしている、という世評を受けていた。
- ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 6』(佐口透 訳注,東洋文庫 365)、p403
- ^ a b c d 加藤一郎 1985, p. 23.
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 6』(佐口透 訳注,東洋文庫 365)、p405
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 6』(佐口透 訳注,東洋文庫 365)、p400. ヌワイリーの百科事典的著書『学芸諸術における究極の目的』(Nihāya al-Arab fī Funūn al-Adab)の第5学芸(al-fun al-khāmis):第5部(al-qism al-khāmis):第11門(al-bāb al-ḥādiya `ashara)に依る。
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 6』(佐口透 訳注,東洋文庫 365)、p406
- ^ 『集史』ジョチ・ハン紀のトクタとノガイの間に起きた紛争のくだりで、「ノガイはこれより先に、アバカ・ハン及びアルグン・ハンに友好と協調を示していた。」とある。(北川誠一「ジョチ・ウルスの研究 2 」p.8)
(赤坂恒明 2005, p. 169) - ^ 『集史』ジョチ・ハン紀の同じくだりで、ノガイから援助を要請する使者が盛んに送られて来る状況に対して、ガザンは「いかに、我々とノガイの間に友好があろうとも、彼らの対立と争いに介入はしない。」と表明している。(北川誠一「ジョチ・ウルスの研究 2 」p.8)
- ^ 赤坂2005,83-84頁
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