モンゴルとの戦い
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「アラー・ウッディーン・ハルジー」の記事における「モンゴルとの戦い」の解説
治世の初期より、チャガタイ・ハン国のハン・ドゥアの軍が頻繁に北インドに侵入し、デリーは二度陥落の危険に晒された。 1298年のモンゴル軍侵入の撃退に成功して威信が大いに高まったことを利用し、かつて買収でジャラールッディーン側から寝返ったデリーの貴族を粛清した。1299年から1300年にかけてのモンゴル軍の侵入では、ドゥアの子であるクトゥルグ・ホージャの率いる20万の軍がデリー近郊にまで迫るが、アラーウッディーン自らが指揮する軍隊の奮戦によってデリー近郊で撃退した。1302年の冬にアラー・ウッディーンがランタンボールに遠征していた時、12万のモンゴル軍が北インドに侵入し、デリーに包囲を布いた。デリーへの交通路はモンゴル軍に遮断されていたために援軍と食料の供給は絶たれ、帰国したアラー・ウッディーンはデリーに入城できずにやむなくデリー東北のシーリー(スィーリー)に拠点を移した。しかし、小競り合いが繰り返された2か月後にモンゴル軍は包囲を解いて突如撤退した。イギリスの研究者ピーター・ジャクソン(英語版)は撤退の理由について、カイドゥを中心とした同盟の崩壊と、崩壊に伴う中央アジア方面の政情の変化が背景にあると考察した。 1310年から1311年にかけてイルハン朝のハン・オルジェイトゥより降伏を勧告する使節団が送られるが、アラー・ウッディーンは要求を容れず、18人の使節団全員を象に踏み殺させた。また、将軍のガーズィー・マリク(後のトゥグルク朝の創始者ギャースッディーン・トゥグルク)をアフガニスタンの山岳地帯に駐留させ、インド北部への侵入を繰り返すモンゴル軍を撃退させてインド北部の草原地帯の安全を確保した。 こうしてハルジー朝の軍隊はモンゴル軍との戦いで勝利を重ね、ハルジー朝・トゥグルク朝に出仕した歴史家バラニーの言うところでは ムガル人(モンゴル人)はイスラーム軍を極度に恐れたので、ヒンドゥスターンを征服するという夢は彼らの頭からきれいに消え去った — バラニー という、ハルジー朝がモンゴル軍に対して優位に立つ戦況になった。
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モンゴルとの戦い
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1202年、メルキトの王トクトア・ベキがモンゴルに敗れ、ブイルクに援助を求めてきた。そこで、ブイルクはドルベン(英語版)、タタル、カタギン、サルジウト、オイラトといった諸部族を集めてモンゴル・ケレイト連合に向かって進軍を開始した。対するテムジンとオン・カンはウルクイ河畔を去って中国国境に近いカラウン・ジドン山の方向へ退却した。ナイマン連合軍はこれを追ってカラウン・ジドンの山脈に入ったが、激しい吹雪に遭って多くの人が凍傷にかかり、さらに崖から落ちた人が多数にのぼったため、遠征は失敗に終わった。 1203年、テムジンと反目したオン・カンがナイマンの領土を通過したため、国境守備の将校は彼を殺し、その首を王であるタイ・ブカのもとへ送った。しかし、タイ・ブカはオン・カンを殺したことに怒り、彼の頭蓋骨を銀の器の中に収めて保存した。 タイ・ブカは日増しに勢力を拡大するテムジンに危機感を覚え、オングトの王アラクシ・ディギト・クリへ使節を派遣して同盟を組もうとした。しかし、アラクシがこのことをテムジンに通告したため、同盟を組むことはおろか、テムジンの進軍を促してしまった。1204年、テムジンがナイマンの領土に侵攻してきたため、タイ・ブカはメルキト王トクトア、ケレイト首領アリン・タイシ、オイラト王クドカ・ベキ、ジャディラト氏首領ジャムカを始め、ドルベン、タタル、カダキン、サルジウトの諸部族と共にハンガイ山脈の麓に陣を張った。両軍が戦闘を開始すると、数では勝るナイマン軍が少数であるモンゴル軍と互角となり、次第に押されていった。この戦闘でナイマン王であるタイ・ブカが戦死し、その子のグチュルクはアルタイ山脈付近に割拠した叔父であるブイルク・カンのもとへ身を寄せ、メルキト以外の同盟部族はすべてモンゴルに降った。 この際、テムジンはタイ・ブカの宰相であるウイグル人のタタ・トゥンガを捕えて自分に仕えるようにし、自分の諸子にウイグル語およびウイグル文字、ならびにウイグル民族の法制・慣習を教えさせた。
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モンゴルとの戦い
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「ステファン・ウロシュ2世ミルティン」の記事における「モンゴルとの戦い」の解説
1280年より後、ブルガリアでは王子シシュマンがジョチ・ウルスの従臣としてヴィディンを統治しており、彼はジョチ・ウルス西部の有力者ノガイに隷属しており、西部への拡張を図るノガイが派遣した軍隊がセルビアに侵入する事件が起きた。モンゴル軍はHvosno(en:Hvosno)に現れるが、セルビアはZdrelo(ペーチ近郊の町)をモンゴル軍から防衛し、ヴィディンへと退却するモンゴル軍を追撃した。ウロシュ2世はヴィディンを初めとするシシュマンの領地を破壊し、シシュマンはドナウ川の対岸に逃亡した。しかし、ウロシュ2世がセルビアの貴族ドラゴシュとシシュマンの娘の婚約を取り決め、またウロシュ2世が娘のアンナをシシュマンの子ミハイルに嫁がせたことで、セルビアとブルガリアの両国は同盟国になった。ウロシュ2世とノガイはヴィディンの破壊を巡って対立し、ノガイはセルビア討伐の軍を起こそうとするが、ウロシュ2世は子のステファン・ウロシュ(後のステファン・ウロシュ3世デチャンスキ)を人質に差し出すことを条件とした講和を申し入れ、1296年からノガイが戦死する1299年までの間デチャンスキは従者と共にモンゴルの宮廷に預けられた。
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