斬馬刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 13:40 UTC 版)
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斬馬刀(ざんばとう:中国語: 斬馬刀、満州語:sacimri loho)とは、中国で用いられていた長柄武器、もしくはその名で通称された大型の刀剣である。
また、近年では創作物の影響で日本刀の一種である「大太刀」がこれと混同される事が多い(後述)。
歴史

前漢時代には「斬馬剣(中国語: 斬馬劍)」と呼ばれる長柄武器が存在していることが文献に残されている。これは長寸の両刃の剣に長い柄を付けたもので、『漢書』にもこの名を持つ刀剣が登場している[1]。漢代において皇帝の権力(王権)の象徴であった「尚方宝剣(尚方寶劍)」もこの斬馬剣の様式であったと伝えられている。
唐の時代には更に長い柄に身幅の広い片刃の刀身を取り付けたものに発展し、「大刀」[注釈 1]と呼ばれるようになった。大刀は身巾が広く刀身が比較的短いものと、身巾はそれほどでもないが刀身の長いものとに分岐して発展し、後者は「眉尖刀」と呼ばれるようになった[注釈 2]。これら「大刀」や「眉尖刀」は斬馬剣と同様に騎馬兵と戦うためにも用いられた。唐代には長くほとんど反りのない片刃、もしくは両刃の刀身に両手で持つに十分な長さの柄があるものが「陌刀」の名で用いられ、これも騎馬兵と戦うために用いられた。
これらの長柄武器、もしくは大型・長寸の刀は、時代が下って宋代の頃には、「斬馬剣」に倣って「斬馬刀」と通称されることが一般的となった。
明代に中国沿岸に来襲した倭寇は明の軍隊が用いるものよりも遥かに長い片刃の刀を使って明軍を苦戦させた、と明の将軍である戚継光が『紀効新書』に記載しており、また豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には日本軍が柄の長い長尺の刀で明軍の騎兵を苦戦させた、と記録されており、李氏朝鮮議政府の領議政(首相[注釈 3])であった柳成龍は、後に著書『懲毖録』の中で、碧蹄館の戦いにおいて明の将軍李如松率いる明軍騎兵が日本軍の長尺の刀で人馬ともに易々と斬り捨てられたことを記している。これらは日本の野太刀や長巻であったと推測される。
(現代に製造された模造品)
この「倭の長く威力の大きい刀」は明の軍備に採り入れられ、日本より鹵獲、または交易を通じて入手されたもの、及び模倣して明で作られたものは「苗刀」と呼ばれて北虜(北方騎馬民族(モンゴル)との戦いの際に対騎馬用の武器として用いられ、これも「斬馬刀」と通称された。
これらの斬馬剣及び「斬馬刀」は、中国においては前漢の時代から明代に入って歩兵用の火器(火縄銃)が歩兵の主力装備となるまでは長らく用いられ、広く銃が用いられるようになっても連射のできない銃兵を騎馬突撃から援護するものとしては、清代となって刺刀(中国語で「銃剣」の意)が普及するまでは使われていた。20世紀初頭、義和団の乱に際しても義和団の中に「斬馬刀」を用いている者がいたことが記録されている。
実用
斬馬剣、もしくは大刀及び眉尖刀、陌刀共に、矛や戟などの長柄武器に近いものであり、騎馬上から敵騎馬めがけての突きや切り払い、または馬上から歩兵に向けての突きや切り払いを行うものとして用いられた。下馬した際、もしくは歩兵が用いた際も地面から騎馬を狙い、突きや切り払いをするものとして扱った。
陌刀は唐の軍隊において横列に並んだ歩兵が膝をついた低い位置で前上方に突き出すように構え、いわゆる“槍衾”と同様のものを作って敵騎馬の突撃を防ぎ、歩兵の隊列の後方から弓を構える兵を守ると共にこの“刀衾”によって足を止めた騎馬隊を猛射する、という陣形を取っていたことが文献に記載されている。また、明の将軍、戚継光の著した『練兵実記』には、騎馬兵に対する有効な戦術として、倭刀(及び、それを模倣した「苗刀」)により馬の頭や足を斬り付けることが記されている。
“斬馬”刀、という言葉から、馬を丸ごと斬ることができる強力な斬力のある代物であると想像されることが多く、特にフィクションにおける表現などでは馬の胴体または首部と騎者を諸共に斬る豪快なイメージが描かれるが、実際にはそこまでの威力のあるものではなく、長い刀身と柄を持つことによるリーチの長さを生かして、馬と騎者からの攻撃を避けつつ、騎者を落馬させるか、足を狙って馬を潰すことが現実の戦闘での使用法であった。とはいえ、大きく重い刀身を、片手で振る通常の刀や剣よりは遥かに大きい攻撃力があり、例え十分な防御力のある甲冑等を着用している相手であっても、斬撃を与えることができれば、斬ることができなくても重度の打撲や骨折を負わせることのできる強力な手持ち武器であったであろうことは確かであると考えられている。
大太刀との混同
日本刀の中でも長大なものである「大太刀」もしくは「野太刀」を指して「斬馬刀(ざんばとう)」と呼称される事がある。
中国と日本における刀剣の発展史を比較すると、中国大陸における斬馬刀(剣)は、日本の大太刀(野太刀)とそれが発展したものである中巻野太刀、更にその発展形である長巻との類似性が見られるが、前述の明代における「苗刀」に倭寇を通じた日本の影響を見ることができる他には直接的な関連性はなく、中国大陸で用いられていた「斬馬刀(剣)」と呼ばれる武器と日本の大太刀とは根本的に別の武具である。
このような混同の原因は、近年の漫画等の創作物が発端だと考えられており、「斬馬刀」もしくは「斬馬剣」という名称の武器が登場する創作作品はいくつかあるが、いずれも中国における「斬馬刀(剣)」とは異なる、創作上のデザイン、もしくは大太刀の異称としての存在である。
脚注
注釈
出典
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参考文献
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- 篠田耕一『武器と防具 中国編』新紀元社〈Truth In Fantasy 13〉、1992年5月。ISBN 978-4-88317-211-5。
- 戸田藤成『武器と防具 日本編』新紀元社〈Truth In Fantasy 15〉、1994年3月。 ISBN 978-4-88317-231-3。
- 市田定治『武器辞典』新紀元社、1996年12月。 ISBN 978-4-88317-279-5。
関連項目
斬馬刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 18:16 UTC 版)
騎馬兵士を馬ごと斬ることを目的に製造された巨大な刀。刃は両刃かつ肉厚・幅広で柄も長い(実写映画版では片刃で、原作ほど幅は広くない)。その重量は刀剣類の中でも最大級で、完璧に使いこなせたものは1人もいないとされる。 その巨大さ故に攻撃が「打ち降ろす」か「薙ぎ払う」かに限定されてしまい、剣心のような先読みを得意とする相手には極めて相性が悪いという弱点があり、剣心との闘いの際にその弱点を見抜かれ斬り落とされてしまう。アニメではそれ以降の登場はない。左之助は徒手空拳で戦い続けてきたが、人誅編では二重の極みが使えない状態であったため、代わりの策として鎹で繋ぎあわせて修復、再登場を果たす。鯨波兵庫のアームストロング砲の砲弾を打ち返した所で鎹が砕けて再び折れるも、次弾装填の前に剣心が砲身をたたき切って鯨波の一時撃退には貢献した。続く戌亥番神との戦闘で無敵鉄甲に叩きつけて無敵鉄甲を粉砕、斬馬刀も完全に砕け散った。左之助は斬馬刀に相当の愛着を持っていたらしく完全に砕けた際は心の中で別れを告げた。しかし番神は無敵鉄甲の下に新・無敵鉄甲を装備していたことが発覚、「改めて(=新しい無敵鉄甲を)披露すると言っただろう」と罵倒された際には「バカに一杯食わされて斬馬刀を無駄死にさせてしまった」と激怒していた。 なお、ゲーム作品ではPS『十勇士陰謀編』以外の全ての作品で登場しており、PS『維新激闘編』では徒手空拳の「相楽 左之助」と斬馬刀を使う「喧嘩屋 斬左」が別キャラクター扱いとなっており、PS2『京都輪廻』では左之助は通常は素手で戦うが葛藤モードになると斬馬刀を使用する。PSP『再閃』では斬馬刀所持が初期設定になっており、徒手空拳で戦うにはラウンド毎に斬馬刀を手放す必要がある。 実写映画版においては剣心との戦いは途中でやめたため、斬馬刀も破壊されておらず、観柳邸の庭での戦闘で使用した他、続編の『京都大火編』でも使用された。『伝説の最期編』では手持ちしていただけで戦闘では使っていない(同作のノベライズ版では安慈との戦いで使用したが、「二重の極み」で粉々に破壊された)。 史実の斬馬刀とは形状は別物。詳しくは大太刀を参照。
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