斬首刑の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:57 UTC 版)
斬首は刑罰として、あるいは生贄として人間を殺害する手段として、古代以来世界各地で普遍的に行われた。いつから斬首刑があったかは定かでないが、既に人類が鋭利な刃物を武器にした青銅器時代にはあったことが確認されている。たとえば中国の青銅器時代に相当する商(殷)・周代では、鉞(エツ)というまさかり状の青銅製利器が斬首に用いられ、王が正義を執行する具として王権の象徴とされた。甲骨文字にも鉞で斬首している様を象ったものがあり、商代の祭祀に伴う生贄として斬首された人骨も多数発掘されている。また秦の始皇帝が10万人を斬首したとする記述も史書に残されている。さまざまな方法が世界各国であり、江戸時代の日本の死罪・獄門では当番同心が日本刀の打刀を用いており、中世ヨーロッパでは死刑執行人は両刃の処刑人の剣を用い、イギリスでは斧が用いられた。 斬首は火刑よりも苦痛が軽いとされており、死刑でも比較的軽い(生命が奪われることには変わらないが)刑罰とされていた。これはローマ帝国の時代であるが、イエス・キリストやキリスト教徒は磔刑ないし動物刑が執行されたが、ローマ市民である使徒パウロには斬首が行われたとされることからもわかる。そのため中世のイギリスでは、斬首されるのは貴族階級だけであった。また、江戸時代の日本においても罪状に応じて複数の死刑が定められていたが、斬首のみの「下手人」が死刑のうちで最も軽い罰とされた。 しかしながら、人の手による斬首は相当な技量がなければ非常に難しく、頚椎の骨のつなぎ目を正確に切らなければ簡単に切断は難しいため、実際には死刑執行人の腕前によっては1度で斬首することに失敗し、首が落ちるまで何度も斬りつけるなど、残酷な結果に終わる危険性が高かった。一例として、17世紀にイギリスのチャールズ2世の子で、父の死後にジェームズ2世に対する反逆罪で斬首刑に処せられたモンマス公爵ジェイムズ・スコットは、悪名高い死刑執行人ジャック・ケッチによって斬首されるはずであったが、何度も切断に失敗し、最終的には斧ではなくナイフで切断するという不首尾に終わった。そのためフランス革命の際、ジョゼフ・ギヨタンによって「失敗のない人道的な死刑方法」としてギロチンの使用が提言されると、革命政府国民議会は1792年4月25日に採用を議決し、以後の処刑を全てこの機械によって行い、恐怖政治の象徴となった。さらにギロチンはドイツに輸出され、ナチス・ドイツ時代に盛んに使用されている。一方フランスでも死刑制度が廃止される1981年9月まで一貫してギロチンが用いられていた。 ギロチンはフランスの死刑に機械的な装置を使用することを議会に提案した提案者であるギヨタンの名にちなむ。ギヨタンが死刑に処された事実はない。 日本においては、平安時代までは武士が捕縛された場合は身分にかかわらず斬首刑となったが、捕虜は恥であるとして切腹を含む様々な方法で自害していた。戦国時代になると切腹の際に醜態を晒さず名誉を保つ死に方として、切腹直後に首を切り落とす介錯が行われるようになった。さらに江戸時代以降は細かな作法が制定され、江戸時代中期以降は実際に腹を斬る前に介錯するようになり、実質的には斬首刑となった。
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