治世の初期
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「ラースロー4世 (ハンガリー王)」の記事における「治世の初期」の解説
1277年4月にグトケレド・ヨアキムはバボニッチ家との戦闘で死亡する。5月に高位聖職者、大貴族、中小貴族、クマン人は集会を開き、ラースローの成人を宣言し、集会の参加者は15歳のラースローに可能な範囲で国内の秩序を回復することを承認した。ラースローはケーセギ家の領地に侵入するが、勝利は収められなかった。11月11日にラースローはハインブルク・アン・デア・ドナウ(英語版)でルドルフ1世と面会し、オタカル2世に対抗する同盟を確認する。 ハンガリーの王軍がアドリアン(現在のルーマニアのリヴァダ(英語版))のゲレゲ・ミクローシュ(英語版)の要塞を占領した後、1278年の初夏にラースローはティサ川沿岸の7つの県のため集会を開催し、反乱を起こした2名の土地の貴族が処刑される。一方、トランスダヌビア(英語版)ではケーセギ・イヴァン(英語版)がラースローとその従弟であるヴェネツィアのアンドラーシュを競わせようと試みていた。アンドラーシュはスラヴォニアを要求したが失敗に終わり、ヴェネツィアに帰還する。1278年にラースローはオタカル2世に対する軍事行動を開始し、ルドルフ1世の軍に合流した。8月26日のマルヒフェルトの戦いでラースローの軍はルドルフの勝利に大きな役割を果たし、オタカルは戦闘中に殺害される。
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治世の初期
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「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の記事における「治世の初期」の解説
ハンガリー王に即位した直後のベーラは、王権の回復と維持を試みた。貴族に土地と特権を付与したアンドラーシュの政策とは逆に、ハンガリーで施行されていた城単位の県制度と王領の復帰を試みた。教皇の認可を得て、アンドラーシュが治世の初期に貴族に付与した王領の回収を行い、それまでは一般的ではなかった文書の使用を義務付けた。また、王室顧問会議場から貴族たちの椅子を運び出して焼却し、出席者に国王への敬意を強く求める。この領地の回収を初めとする強硬な政策に、貴族たちは不満を抱く。さらに都市の地位を高めるため、1237年にセーケシュフェヘールヴァールに関税免許、判事の選出権などの特権を付与した。次いでペシュト、エステルゴム、ナジソンバト、シェルメツバーニャ、ニトラなどの領内の主要な都市にも、新たに特権を付与した。 時代を遡り、1235年にドミニコ会の修道士ユリアヌス(英語版)は、東方に住むハンガリー語を話す民族を探す旅に出ていた。1239年にユリアヌスは帰国し、バシキリア(ヴォルガ河])で出会ったマジャール人から伝え聞いた東方のモンゴル帝国がヨーロッパ遠征を計画している情報をもたらした。そして、ガリツィアに駐屯するモンゴル軍の総司令官バトゥから、降伏を促す書簡が送られる。同年にベーラは族長クタン(ケテニュ)が率いる40,000戸のクマン人を受け入れ、彼らに居住地を与えて大貴族とモンゴルの侵入に対抗する戦力に加えようと試みた。しかし、遊牧民であるクマン人の生活様式は定住生活を営むハンガリー人と相容れず、両者の対立は深刻化する。1240年にクタンを初めとするクマン人の首領とハンガリーの貴族・僧侶を会議に召集し、クマン人の居住区の割り当てと首領たちの洗礼が決定されたが、なおもハンガリー国民が抱くクマン人と彼らを受け入れたベーラに対する憎悪は収まらなかった。 モンゴルの侵入に備え、1239年末にカルパティア山脈峡谷部に木の城砦を築き、翌1240年にルーシからモンゴルの脅威を伝える報告が伝えられるとブダで僧侶・貴族を招集しての会議の開催を決定する。1241年のブダの会議ではクタンとクマン人の逮捕、防衛策について協議されたが、会議中に3月12日にバトゥ指揮下のモンゴル軍が国境を突破した報告が届けられる。
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