ソンガイ帝国への遠征とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ソンガイ帝国への遠征の意味・解説 

ソンガイ帝国への遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/15 03:00 UTC 版)

アフマド・マンスール・ザハビー」の記事における「ソンガイ帝国への遠征」の解説

詳細は「トンディビの戦いフランス語版)」を参照 マンスール治世の初期に手にしていた豊富な資金は、宮殿及び街区整備のほか、軍事費多岐にわたる諜報活動王家華美な暮らしスルターンへの同調者増やすための宣伝活動莫大な出費がなされ、最終的に尽きてしまった。対ヨーロッパ赤字解消するため、マンスールは金の獲得目的としたソンガイ帝国とのトランスサハラ貿易にのめり込まざるを得なかった。 当時サハラ越えたサヘル地帯にはソンガイボルヌという二つ国家栄えていた。アスキア朝ガオ帝国ソンガイ帝国)は、ニジェール川大湾曲部の東部交易都市ガオ首都として15世紀はじめから16世紀末にかけて膨張した王国一つである。ボルヌ帝国チャド湖周辺広がる王国である。二国とも、金、塩、コーラの実(フランス語版)、綿織物などを商品とする交易網を支配する王国であったボルヌソンガイ対抗する政治的意図基づいてマンスール臣従し、モロッコによる西スーダーン(サヘル地帯西側チャド湖周辺中央スーダーン)の併合要請した1590年10月16日アフマド・マンスールソンガイ帝国内で生じた内紛乗じて4,000人の兵を送ってサハラ砂漠越えさせた。モロッコ兵を率いたのはスペインからの転向者、ジュウザル・バーシャー(ジュデル・パシャ(英語版スペイン語版))である。ソンガイ王アスキア・イスハーク2世フランス語版)は40,000人の兵でこれを迎え撃った。しかし、ソンガイ兵は銃や大砲武装したモロッコ兵の火器威力前に敗れた(トンディビの戦い)。モロッコ兵は進軍しトンブクトゥジェンネ包囲制圧した。さらにソンガイ帝国首都であるガオまでをも陥れた。しかし、サハラ砂漠越えて領土維持するのは補給の面で難しくサアド朝による西スーダーン支配は、遅くとも1620年には終わったソンガイ帝国侵攻によりもたらされ損害により崩壊した

※この「ソンガイ帝国への遠征」の解説は、「アフマド・マンスール・ザハビー」の解説の一部です。
「ソンガイ帝国への遠征」を含む「アフマド・マンスール・ザハビー」の記事については、「アフマド・マンスール・ザハビー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ソンガイ帝国への遠征」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ソンガイ帝国への遠征」の関連用語

ソンガイ帝国への遠征のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ソンガイ帝国への遠征のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアフマド・マンスール・ザハビー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS