治世の終盤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:03 UTC 版)
「カロル1世 (ルーマニア王)」の記事における「治世の終盤」の解説
カロル1世の長い治世は、ルーマニア国家の素早い発展に貢献した。しかし、その治世が終盤に向かう頃に第一次世界大戦が始まると、ルーマニア国民の意見が三国協商寄りだったにもかかわらず、ドイツ生まれの王は中央同盟国側に就くことを望んだ。1883年にカロル1世は秘密条約に署名して、三国同盟と手を結んでいた。この条約は、条約の締結国のうち一国がロシア帝国を攻める際にのみ有効とされたが、カロルはドイツ帝国を支援する戦争に加わることは名誉なことだと説得されていた。 カロルがルーマニア人政治家と意見を同じくすべく、閣僚に秘密条約について話したことから、緊急事態による会合が政府閣僚らによって開かれた。カロルが直面した意見の大きな不一致は、1914年10月10日(グレゴリオ暦では9月27日)の彼の急死を招いたといわれている。王位継承予定者フェルディナントは、イギリス王女である妃マリア(旧名メアリー・オブ・エディンバラ)の影響下にあり、彼はさらに世論に耳を傾けようとした。
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