治世中の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 07:04 UTC 版)
「ヴァフタング6世 (カルトリ国王)」の記事における「治世中の経歴」の解説
1719年、ようやく帰国の許可が出てグルジアへ帰国したヴァフタング6世が真っ先に直面した懸案事項は、北のコーカサス山脈にいるダゲスタンのレズギ人による「レキアノバ」という断続的な襲撃を終わらせることだった。ペルシャ政府が彼を防ごうと介入した時、ちょうどヴァフタング6世が最後の一撃を加える準備が整った。これでヴァフタング6世のフサインに対する短期間であった忠誠は終わりを告げ、秘密裏にロシア皇帝ピョートル1世と連絡を取った。そして、コーカサス地域におけるロシア軍の将来的な駐留の支持を表明した。いくらか遅れが出た後に、ピョートル1世は1722年7月、カスピ海西岸に自ら25,000人の陸軍と艦隊を率いてきた。 詳細は「ロシア・ペルシャ戦争 (1722年-1723年)」を参照 この時、サファヴィー朝は首都イスファハーンがアフガニスタンのホタキ朝軍によって包囲されて大混乱に陥っていた。ヴァフタング6世の庶弟でサファヴィー朝ペルシャの家臣で司令官であったロストム王子(英語版)は包囲中に戦死し、フサインはバカルを守備隊の司令官として任命した。しかし、ヴァフタング6世はイスファハーンの救援に行くことを拒絶、同時期にオスマン帝国からペルシャに対する同盟を持ちかけられるが、ロシア軍の到着を待つことを選択した。ピョートル1世はコーカサスのキリスト教徒にペルシャのくびきからの最終的な解放の為に軍事的支援を提供することを約束し、キリスト教徒のグルジア人とアルメニア人の民衆に大きな幸福感を与えた。 9月、ヴァフタング6世は行軍するロシア遠征軍と合流する為にギャンジャで40,000人のグルジア・アルメニア混成部隊と野営した。ヴァフタング6世の希望は、ピョートル1世がロシアの利益の追求だけを考えるのではなく、ペルシャとオスマン帝国の両者からグルジアを守ることも考えてくれることだった。しかし、ピョートル1世は嵐を理由にロシア軍を撤退、カスピ海沿岸の領土を獲得する様陸軍に命令したが、既にコーカサスへの出兵用意を整えたオスマン帝国と争わないことを選択した。ロシアの撤退で援助を受けられなくなったヴァフタング6世はロシアとの同盟を中止し、11月にトビリシに戻った。 翌1723年5月、シャー・タフマースブ2世は東グルジアのカヘティ王国の国王でムスリムのコンスタンティネ2世(英語版)のカルトリ王国の支配権を承認するとしてヴァフタング6世にしっぺ返しをくらわせると、コンスタンティネ2世とペルシャ軍がヴァフタング6世の領地に進駐を開始した。ヴァフタング6世はトビリシで何度か攻防戦を繰り返した後、最終的に放逐されカルトリの内地に逃れた。そこから、カルトリ王国に進軍するオスマン帝国軍の支持を得ようと試みてオスマン帝国皇帝の権威に服すとしたが、オスマン帝国軍にカルトリ王国を占領され、名ばかりのムスリムに戻ったイェッセに王位を譲った。
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